三島由紀夫著『金閣寺』 きわめて面白い小説――三島由紀夫『金閣寺』についての感想 評者:久保田正文 「読書タイムズ」1957(昭和32)年1月1日号|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年1月19日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第186号)

三島由紀夫著『金閣寺』
きわめて面白い小説――三島由紀夫『金閣寺』についての感想
評者:久保田正文 「読書タイムズ」1957(昭和32)年1月1日号

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筋書きの紹介は省略する。金閣寺を焼く青年僧・溝口に托した作者の思想とモラルは、現実的な説得力をもつに至っていないということも、はじめにことわっておいてよいことであろう。その思想が完成していないことは作者自身がよく承知していると推断しうる。なぜなら、「生きようと私は思った。」という一行をもって、作者はこの作品をしめくくっているのだから。完成したものは死ななくてはならぬ。溝口の思想が完成し、現実的な説得力をもつものとなりえているならば、作者は金閣寺の炎上とともに、それの最高の対立者である溝口を死なせることができたはずである。

しかし、作者が、その思想は現代の秩序あるいは崩壊のなかでは、まだ完成の条件が与えられていないということを知っていて「生きようと私は思った」というつぶやきへ持ちこむように現実を構成したということは、芸術としての完成を目ざすことを妨げない。

それだから、誤解をおそれずに言えば、これは極めておもしろい小説である。そのおもしろさは、強く硬い観念の研石で磨き出された貝片を、ほとんど隙のない緊張ある文章の台へ象嵌して行った蒔絵の美しさのようなものからくるものである。そうかと言って、そこにあるのは美文というふうなものではない。古風な蒔絵であるよりは、精緻なガラス細工というべきかもしれぬ。

内翻足の青年柏木の独白(第四章)は、ゆるぎのない観念を構築で、ほとんどまったく非現実的な美しさを積みあげてみせているが、柏木の語り終ったあとの空虚な心象へ、作者は「裏手のバスケットのコートから、ひびいてくる喚声」と「明るいクローバア」のかがやきを衝突させている。極度に観念的なものと、極度に現実的なものを相応させる効果。蚊帳のゆれで描いた母親の不倫、メスで切開されて首の腫物がはじけるイメージに重なる終戦――作者はほとんど遊びのように楽しんでいる。

モラルを放棄した芸術は、おもしろさと美しさを結びつけることに、芸術のモラルを発見するものである。(文芸評論家)(新潮社・二八〇円)
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