詩的水平線 萩原朔太郎から小林秀雄と西脇順三郎 書評|岡本 勝人(響文社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2020年1月18日 / 新聞掲載日:2020年1月17日(第3323号)

詩的水平線 萩原朔太郎から小林秀雄と西脇順三郎 書評
一人の詩人の 近代文学史眺望

詩的水平線 萩原朔太郎から小林秀雄と西脇順三郎
著 者:岡本 勝人
出版社:響文社
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 本書は読みやすい本ではない。何が語られているのか、しばしば立ち止まって考え、重い足を引きずるように読み終え、何度か読み直した。よくわからないけれど大事なことが述べられているという感想をいだきつつ。

朔太郎の「夜汽車」に始まり、その「移動性」という著者の論に乗ると、小林秀雄の文章に内在する音楽性、西脇順三郎の詩に内在する絵画性へと論は文字通り「移動」して行く。著者の用意したこの乗りものから見える近代文学の光景はきわめて斬新な構図を持っている。《小林秀雄と志賀直哉との師弟関係と小林秀雄と河上徹太郎の友人関係を基礎にして、小林秀雄と保田與重郎との比較を右に置き、小林秀雄と西脇順三郎との比較を左に置くと、日本近代文学のひとつの万華鏡があらわれるのである。》著者の言う「詩的水平線」もこの構図から浮かび上がるものの如くである。

本書では「私は」とか「私が」とかを主語とした文章が極端に少ない。論者の展開する光景を読者がひたすら眺めることを求めてのことと理解されるのだが、一方で論の進め方は論者ならではの感受、思考に溢れており、私など眩暈を覚えることしばしばである。テクストの引用も同様である。

「おわりに」で著者は《本書は、いままで読んできた多くの書籍のなかで、もっとも本人が気にいったところのフレーズ(文章・エクリチュール)を引用することでできあがった書物である》と述べているが、まさに本書の「引用」こそ著者のもっとも意を注いだところであろう。西脇順三郎の詩にしろ、小林秀雄の評論にしろ、本書における引用箇所はテクストのつぼである。「つぼ」はテクストまるごとの再読を要求する。岡本氏はそれこそが本書の企みだと言うのではないか。

いいそびれたが、岡本勝人氏は詩人である。随所に詩人らしい発想や詩人ならではの飛躍があり、それが私などを眩暈に誘う。しかし、詩人としての一種の反省から本書は書かれたのではないかという仮説を私はいだいた。それは小林秀雄のエッセイ「表現について」の次の引用による。

《近代の精神力は、様々な文化の領域を目指して分化し、様々な様式を創り出す傾向にあるが、近代詩はこれに応ずる用意を欠いている。詩人のうちにいる批評家は、科学にも、歴史にも、道徳にもやたらに首をつっ込み、詩人の表現内容は多様になったが、詩人には何が可能かという問題にはまともに面接していない、散文でも表現可能な雑多の観念を平気で詩で扱っている。それというのも、言葉というものに関する批判的認識が徹底していないからだ。詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。》

詩的言語の「定立」と「組織」に取り組む岡本氏の、現在までの自己の読書の謂わば集大成をまとめておこうという試みが本書執筆のもっとも大きな動機だと思われる。一人の詩人の近代文学史眺望として、本書は難解ではあったが私にとっては刺激的なものであった。
この記事の中でご紹介した本
詩的水平線 萩原朔太郎から小林秀雄と西脇順三郎/響文社
詩的水平線 萩原朔太郎から小林秀雄と西脇順三郎
著 者:岡本 勝人
出版社:響文社
以下のオンライン書店でご購入できます
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