深沢七郎著『笛吹川』 読みよい歴史小説――かなめを惜気もなく通りすぎる 評者:室生犀星 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月5日号|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年1月26日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第223号)

深沢七郎著『笛吹川』
読みよい歴史小説――かなめを惜気もなく通りすぎる
評者:室生犀星 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月5日号

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新進の作家は雑誌の表面で書きはじめると、一挙に爆発物のように沢山書く、その気持はよく判るしそれでよいのである。書き捲って何にもなくなればその儘倒れてもよいのだ。私は爆発物が遠くまで爆ぜ続ける美事さを何時も見ていて、いいなあと思うのである。

深沢七郎は『楢山節考』を書いて、しんとしずまっていて、ほかの新進のように書かないでいた。それも私にはある作家の作品行状だと思った。沢山書いて沢山読まれるということはない。一つ書いてその一つを丁寧に読ませた方がよい。だが、今の日本の文学では書き捲って行った方が早みちなのだ、若し書かずに済むようであったら、早みちを通らない方がよい、まして深沢七郎はこの早みちを避けていた。

『笛吹川』はこの作家の第二の作品だ。しろうと好みでかなめを克明に描くことをしないで、さっさと惜気もなく通りすぎている。この手法は小説というものを知りすぎている人が、半分くらいしか知らないでいる人の行き方である。かなめでぐいぐい抉ることもしない、そのために印象が稀薄になる場合があった。先へ先へと苦渋なく読みよい手なれたところはよいが、立ち停って回顧しなければならない時が必要だ。

歴史小説というものをかさだかにしないで、平坦に取り容れて川中島のいくさをただの「いくさ」にしている扱い方はよかった。いくさに出て行くのはちょっと野良に出てゆく簡潔さでかた付けられているのも面白い、もっと書きたいが私は半分しか読む時間しかなく、編集者にこの原稿を渡さなければならないので、半分読みの感想を述べることになったのである。(B6判・二三七頁・二八〇円・中央公論社)(むろう・さいせい=作家)
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