「ヨーロッパ文芸フェスティバル2019」レポート トーマス・ブルスィヒ「東西統一とその後」 「壁崩壊期の文学」を超えて ブルスィヒが描く東独市民たちの日常|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年1月31日 / 新聞掲載日:2020年1月31日(第3325号)

「ヨーロッパ文芸フェスティバル2019」レポート トーマス・ブルスィヒ「東西統一とその後」
「壁崩壊期の文学」を超えて
ブルスィヒが描く東独市民たちの日常

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 昨年11月のヨーロッパ文芸フェスティバルではヨーロッパ各国の作家や翻訳者が日本の識者と共に様々なイベントを行った。その一つにドイツ人作家トーマス・ブルスィヒを迎え朗読と対談が催された。対談相手はブルスィヒ作品の翻訳者でもある粂川麻里生氏。今回、粂川氏に日本であまり知られていないブルスィヒ作品の魅力を伝えてもらった。  (編集部)

写真提供:Goethe-Institut Tokyo(ブルスィヒを招聘)

トーマス・ブルスィヒ氏
昨年11月1日から一週間、ドイツの作家トーマス・ブルスィヒが「ヨーロッパ文芸フェスティバル」(於・イタリア文化会館他)のゲストのひとりとして日本に滞在した。今回同氏が招聘されたのは、昨年がベルリンの壁崩壊後30年という区切りの年だったからだ。ブルスィヒは壁崩壊の時期とそこにいたるまでの東独市民たちの日常的な暮らしをユーモアとペーソスをもって描き出す作家として、東西ドイツ再統一直後から注目を集め始め、現在にいたるまで「壁崩壊期の文学(Wendeliteratur)の旗手」としての地位をドイツ文壇と現代文学史上においてたしかなものとしている。日本では、東独の若者たちの青春を描いたグラフィティ的小説『太陽通り』、同じく東独出身のサッカーの監督やサッカー審判が再統一後のドイツ社会についてぼやき続けるコミカルなモノローグ『ピッチサイドの男』、『サッカー審判員フェルティヒ氏の嘆き』が翻訳されている(すべて三修社刊)。

急速にグローバル化し続けるドイツにおいて、文学の主流はもはや「ドイツ文学」ではない。2009年にノーベル文学賞を受賞したルーマニア出身のヘルタ・ミュラーや日本出身の作家多和田葉子のような、「移民」としてのバックグラウンドをもった小説家たちが、異人の目をもって社会や人々の暮らしを見つめる作品を発表し続け、人々の感受性を多層的にすることにも寄与している。(カズオ・イシグロがノーベル賞を受賞した英国などにおいても言えることだ)。そんな中、ブルスィヒが描き出す「旧東独の人々」は、いわば「ドイツ国内の移民」として、ある意味では移民文学にも似た存在感を放っている。移民も、旧東独市民も、現代ドイツ社会において当然ながら「主流」ではない。彼らの文化、社会観、歴史観、人生観は、主流の人々が作り出す社会や言説の中で、否応無く抑圧されていく。「東ドイツは牢獄だった」「自由がなかった」「ドイツが統一されて良かったですね」「1990年以来、東独市民は解放されました」といった言葉が「事実」を語るものとしてまかり通り、東独時代を懐かしむ発言をすれば「ノスタルジー」「反動的」のレッテルを貼られる。しかし、ブルスィヒの文学は「そればかりじゃないよ」と抵抗するのだ。

東独社会はたしかに監視され、自由が制限されてはいたが、だからといって人生の意味や尊厳までも失ったわけではなかった。そんな「人間」たちが、ブルスィヒの作品中で少し苦い微笑みとともに描き出される。警官の目をかいくぐって、西側のロック音楽のレコードを密輸入する少年たちは西ドイツの若者たちと何ら変わるところはないばかりか、むしろより生き生きとしている。社会主義統一党の独裁政治をぼやきながら、なんとか自分のサッカーチームを強くしようとするトレーナーの思考と人生観は、われわれと比べて特別に制限されているわけではない。政治的な不自由は、人間のあらゆる思考や感受性に浸透するわけではないのである。

ブルスィヒの文学によって、ドイツはむしろ他の先進諸国が得られなかった思考と感性の自由を手にしたとも言える。東独の崩壊と西独による吸収合併としてのドイツ再統一は、たしかにある種の「解放」ではあった。しかし、「西側の歴史観・社会観」によってすべてが塗りつぶされてしまうなら、「解放」はたちまち束縛に変わってしまうだろう。その意味で、「壁崩壊期の文学」は特殊な文学ではない。古今東西、歴史が曲がり角を曲がるとき、いつでも新しい主流の言説が台頭し、それによって声になりにくい思想や思いが地下に沈潜していく。文学はいつも、そういう社会の奥底に沈殿した人々の思いを鮮やかな言葉の仕掛けによって掬い出してみせるものだろう。

文芸フェスティバルの会場で、「日本は世界史の流れから取り残されているように感じることがあります。壁崩壊のような歴史的体験をもたないわれわれ日本人は、現代社会をどのように考えたらいいと思いますか」という問いかけを受けたブルスィヒ氏は「日本の皆さんに、慰めを言うつもりはありません。たしかに、ベルリンの壁崩壊という出来事は特別な出来事だったし、それを当事者として体験できた自分は幸せだ、と思うこともあります。ですが、歴史というのはいつだって、思いもしない方向に流れていくのではないでしょうか。日本に世界史的な出来事が何も起こっていないとは思いませんし、これからも当分起こらないなどとは、誰にも言えないのではないでしょうか」と答えた。

たしかに、われわれ日本人は「変わりたくても、変わりようがない」中でじわじわと衰退し続ける憂鬱な社会を生きている。しかし、それでもわれわれが生活している空間もまたまぎれもなく「ベルリンの壁崩壊後」の社会なのだ。ブルスィヒ作品のような文芸から、われわれにとっての「言葉にならない声」が聴こえてくるかもしれない。
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