中平卓馬をめぐる 50年目の日記(41)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2020年2月3日 / 新聞掲載日:2020年1月31日(第3325号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(41)

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カメラ雑誌では掲載作品の後尾に使ったカメラとフィルム名を表記するのが慣例になっている。作品をお手本にカメラやレンズ、フィルム選びをするアマチュアカメラマンに役立つ情報として慣例化された、一種の宣伝法でもある。
「その伝で言えば、たとえ印刷されるものだとしても元原稿はかくして書かれたと暗に示す原稿用紙名や使用万年筆、それにインク名が文の末尾に明記されていたっていいよね。万年筆はカメラ、インクはレンズ、そして原稿用紙はフィルムに相当するんだから」というのがカメラ雑誌の慣例への皮肉を込めた、少なくとも半分は真面目な中平さんの持論だった。

それほどのこだわりがあるくらいだから、私は「残りわずかになった」と中平さんが言っていた愛用のインクと原稿用紙を翌日に届けたのだ。

すると「間に合ったね、これで今日中に上がりそうだ。このまま待っててくれないか」と機嫌がいい。ならばこの機会を逃すものかと、威厳ある書道家のお父さんも居るところで待つのも気詰まりだったが、書き上がるまで居させてもらうことにした。

昼になってそこでもまた食事をご馳走になった。中平さんは奥の部屋に籠もりっきりで食卓に来ない。ラストスパートに入っている様子。私は食事を終えると、中平さんの小さな息子と絵描き遊びをして時間をつぶした。
「出来たよ」と部屋から出てきた中平さんの顔は宿題を終えた子どものように晴れやかで自慢げだった。

私は出来たての原稿を持って直ぐ大学に戻ることにした。中平さんが綱島駅まで送ってくれた。その道すがら「オレもやはり自分たちのを作ろうと思う。多木さんと構想中なんだけどね」と、拠点となる媒体を作る計画を話してくれた。「人の褌をあてにしないと言うことだね」とも。

それは最大の援軍が出来ることだ「是非そうしてください」と私は言った。そして忘れるところだった原稿料の封筒を渡した。中平さんはすぐに中を確かめ、「これは現代評論社よりずっと上だ」と吃驚した。

原稿料を雑誌が出来てからではなく原稿の受け取りと同時に支払うようにしたのは、私たちがそういう常識を持っていなかったからと言うわけではない。出費の原資の鍵を握る、機関誌の版元となる学生会の状況が急を告げていたからだ。大学構内は日に日に革命前夜とはかくやの雰囲気になっていて、払うものをとっとと済ませておかなければ危ないと思ったのだ。

だから編集局の担当者は大急ぎで書類を書き、学生会に届け、学生会の担当者は間髪を入れずに自治会費を管理している大学の会計課にそれを届けた。会計課ではどうしてもなにがしかの時間が掛かる。友人のリーダーがそこにもショートカットの話をつけてくれて、印刷後に必要となる諸々の支払金が編集局の口座に無事に振り込まれた。資金源の確保をたしかめたので、皆はほっとして三田の印刷会社への日参に専念できた。

文字数計算も覚束ない素人集団を見かねた植字工の人たちまでが代わるがわる手伝ってくれた。ここは何号の活字だと一行は何字詰めになる、字間と行間はこうなるけどいいね? だとか、朝の始業時から夜遅くまで手取り足取りの協力を得た編集作業が続いた。

一日の予定を終えて皆が一緒に駅へ向かう道で、誰かが身を揺するたびに、服に染み込んだインクと活字の鉛の匂いがぷーんとあたりに漂った。「いい匂いだ」と皆が言った。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)

   (次号へつづく)
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