禁色 書評|三島 由紀夫(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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【書評キャンパス】大学生がススメる本
更新日:2020年2月1日 / 新聞掲載日:2020年1月31日(第3325号)

三島由紀夫著『禁色』

禁色
著 者:三島 由紀夫
出版社:新潮社
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禁色(三島 由紀夫)新潮社
禁色
三島 由紀夫
新潮社
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 『禁色』は、三島由紀夫が二十代の総決算として上梓した作品である。三島文学の特徴である演劇性と、プロットの機械の如き巧緻さが、本作品では顕著に表れている。すなわち、最終章で展開される美学的な言説によって、物語内部で起こった事に対し、解釈の光が照射される構造になっているのである。老作家たる檜俊輔が、南悠一という同性愛者の青年に美を見出し、その悠一を嘗て檜を見限った女たちに接近させ、成就しない愛の関係を築かせ復讐しようと目論む物語、それが本作である。その具体的なプロットが、実は、言語藝術の普遍的構造を解き明かす美学=機械となっている。性愛、青春、肉体、精神、そして美と行為といった作品内に鏤められた諸要素は、あたかも機械の部品のごとく、全体(美学=機械)に奉仕するのである。

どういうことか。「大団円」と題された最終章で俊輔と悠一はあいまみえ、この時を待っていたと言わんばかりに、俊輔はおのれの美学を論じ出す。曰く、美は「人間的条件下に置かれた自然」である。自然とはそれ自体で確固として自足する存在者のことであり、美とは自足するものの輝きである。もし精神が美に魅了されそれに触れようとするなら、自立性はたちまち損われ、美は消失してしまう。だから精神が美を追い求めど「精神と自然の和解」へ到達することはない。精神と美の媾合は、ただ自殺という一回的で究極の行為によってのみ達成される。表現という手段が描きうる「最高のものは、たかだか、最高の瞬間の次位に位するもの」に過ぎない。ここに、美に焦がれながら傍観者に留まり続ける藝術家の苦悩がある。

しかしだからこそ「こうして表現に絶望した生者を、又しても救いに駈けつけて来るのは美」であると彼は言う。美は「生の不的確に断乎として踏みとどまねばならぬ」と生者に教える。何故なら、美は傍観者の表現無くしては、美として成立しないのだから。美はあくまで自立しており、それ自体では何ものでもない。美は、それを追う者によって、初めて美としての真骨頂を垣間見せる。美の蘊奥に届かないことが露呈するのは、生ける表現者が美に到達しようと言葉を振り絞るからこそである。だから美は、決して届かないものだけれど、絶対的に此岸のものである。そして表現者は、美を引き出す者として、行為者と同じく不断に死へと近づいている。自らの立つこの狂える恍惚境の秘密を俊輔は告白し、会話は終了する。それに伴って美学=機械も停止へと向かう。直後のエピローグでは、表現者にとって生と死がいかに表裏一体のもので、どっちに転んでも不思議ではないことが、簡潔かつ効果的に描写されている。

行為に対し決定的に遠く、しかしそれに肉薄し、美を引き出す……それが表現である。『禁色』は、一つの小説として自らが展開する物語すらだしにし、「表現」という行為の構造解析を行っている。そこには、表現に対する恐ろしく冷徹で、仮借のない三島の態度が見て取れる。物語を物語としてしか語ることを知らない小説が多いなか、『禁色』は稀代の発明品として、ひたすら駆動する瞬間を待っているのである。
この記事の中でご紹介した本
禁色/新潮社
禁色
著 者:三島 由紀夫
出版社:新潮社
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