どこにでもあるどこかになる前に。 富山見聞逡巡記 書評|藤井 聡子(里山社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2020年2月1日 / 新聞掲載日:2020年1月31日(第3325号)

どこにでもあるどこかになる前に。 富山見聞逡巡記 書評
一年のほとんどが「曇天」
富山という街の、人々の営みの堆積を「発見」

どこにでもあるどこかになる前に。 富山見聞逡巡記
著 者:藤井 聡子
出版社:里山社
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 いま、雪が降っている。「東京にも雪が降るんだよ」と、藤井聡子さんに話しかけたい気持ちになっている。

というのもこの本の著者である藤井さんは、冒頭近くで「東京の冬はというと、ブルーハワイをバケツでぶっかけたような青空ばかりで、私はその下を歩くことが苦痛でならなかった」と書いているからだ。対して生まれ故郷であり、里帰りした地である富山は「一年のほとんどが曇天」だという。それは文字通り曇り空であることと同時に、快晴も土砂降りの雨も、そして県外の人間がイメージしているような雪も実はさほど降らず、つまりはあれもないこれもない、ないないづくしの陰気な中庸状態が普通であることを意味する。

「曇天」こそが本書の核心だと私は読んだ。それは、映画の仕事をしたくて東京に出たものの果たせず、「都落ち」して富山に帰るも、しばらく離れていたからという理由では済まないくらい富山のことも知らない自分に呆れ、しかし実家が薬局だからいちおう居場所もあって、そんな環境に甘えているのがまた情けなく……という、上京&里帰り経験者に見事に普遍的な冴えない空模様そのものである。

しかし、そこにはありがたいことに時間がある。二つの時間だ。一つは著者自身が、東京から帰ってきて少しずつ気持ちが落ち着き、人にも会い、自分でフリーペーパーを作ろうかという意欲も出始め、知らなかった富山を「発見」していく時間。もう一つは、そうした「発見」をもたらしてくれるのは富山という街の、そこに住む人々の営みの堆積が、つまりは歴史があるからで、適宜挿入される富山市の歴史についての記述は存外重要である。

そして人。なんといっても、人。人と場所にこそ帰郷者のやすらぎと歓びがある。著者は一九七九年生まれだからちょうど四〇歳だが、本書に出てくる大半の人々は年上だ。なぜなら、著者が「発見」するのは富山が時間をかけてつくってきた場所ばかりで、当然、そこでは年輩者が多くなるから。通うようになる場所は、世間の多くの人が訪れるメインストリームとは違い、なぜそんな場所がいまだに残っているのかわからないような、足を踏み入れたら毒気にあてられそうな、そしていつも温かく迎えてくれる店主がいる、そういう場所ばかりだ。

いま、この国の多くの都市が、どこも同じような店や駅や街並みに支配され、均質化していこうとしているのは明らかである。著者はそのことに深く違和感を覚えるが、だからといって拳を振り上げてアンチ均質を叫んだりはしない。均質化がもたらす恩恵というのも必ずあって、それは東京発の大資本傘下の店ばかりで埋め尽くされていくことの中にもあったりする。ああ、あの店ね、という普通の人々の安心感を見下すようなことを、この本の著者はけっしてしない。

そして留まり続ける。その居心地の悪さに。むろん、何らかの反対運動などに係わることだってあるだろう(それは大切な実践だ)。しかし藤井さんは、少数派を自認して突っ走るには、羞恥心がありすぎる。

明日は晴れるかもしれない。いや逆に雪になるかも。今は天気予報の精度が高いから、スマホで見れば一発だが、それではつまらない。そんなことより、好きな店の片隅で酒でもコーヒーでも飲みながら、この本を開いて、読んでほしい。
この記事の中でご紹介した本
どこにでもあるどこかになる前に。 富山見聞逡巡記/里山社
どこにでもあるどこかになる前に。 富山見聞逡巡記
著 者:藤井 聡子
出版社:里山社
「どこにでもあるどこかになる前に。 富山見聞逡巡記」は以下からご購入できます
「どこにでもあるどこかになる前に。 富山見聞逡巡記」出版社のホームページはこちら
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