安部公房エッセイ 「記録精神」について――二つのリアリズム 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月19日号|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年2月9日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第225号)

安部公房エッセイ
「記録精神」について――二つのリアリズム
「週刊読書人」1958(昭和33)年5月19日号

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リアリズムというのは、要するに、とらえる対象を現実においているということだと思うのだが、日本ではむしろ、通念として、現実そのものよりも現実概念、あるいは現実らしきものを描いている場合を、リアリズムとよぶ傾向がつよい。この場合、現実はすでに出来上ったものとして、作品以前に認識されてしまっているわけだ。しかし、現実は、作品以前に存在・・はしえても、認識されているとはかぎらない。むしろ芸術は、作品によって・・・はじめて認識された世界でなければならないだろう。そこでおのずから芸術に方法が求められることになる。ところが作品以前の認識で作品をつくる場合は、とくに芸術の方法など必要としないわけで、せいぜいが真面目なだけの、方法のないリアリズムがうまれるよりほかはない。

社会主義リアリズムが方法か世界観かなどという混乱も、つまりはリアリズムの通俗的解釈による結果だろう。方法の一つの重要な要素であるべき形式を、単なる内容の容れ物として片づけてしまう傾向は、そのまま方法の喪失ともむすびついている。最近佐々木基一は形式のアクチュアリティということを主張しているが、私もまったく同感だ。内容が形式を規定するだけでなく、それ以上に形式が内容を規定する面に注目してこそ、方法の自覚的運用も意味をもってくるのである。形式に不感性になってしまったリアリズムは、対応する現実のステロタイプ化という点で心理主義の裏がえしであり、形式のステロタイプ化ということで形式主義の裏がえしにすぎないのだ。

この分裂は、もっとも原理的な記録概念のうえにもはっきりあらわれている。記録とフィクションを素朴に対立させるやりかたや、記録にフィクションは必要かなどという問題のたてかたはそれを必要だといおうと不必要だといおうと、いずれ方法欠如の産物にしかすぎないのである。あるソ連の映画監督は、普及のために記録にフィクションをまじえるべきだというようなことをいっていたが、こんな考え方は、単に記録概念の混乱だけでなく、フィクションの意味をまったくとりちがえたものだ。そんな程度の方法意識では、最近わが国でもさかんな道徳的風俗小説と、あまりちがいはないことになる。フィクションはいわば科学における仮説に相当するものであり、方法は一般的なものから具体的なものにする転換点なのだから、フィクションから切り離された記録など、ハンドルをもたない、あるいは動かせない、自動車にすぎないのである。

最近の小説(のみならず芸術一般の)アクチュアリティの喪失を、モラリティの欠如だとかリアリズムからの逸脱だとかいうふうにいうことには反対だ。必要なのはまず方法の自覚なのである。そして、方法への関心とは、そのまま作家としての現実への関心であるはずであり、私たちはこのもっとも端的な表現を、「記録精神」とよんでいるわけなのである。(あべ・きみふさ=作家)
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