絶望的な世界のなかに希望を見出す ワアド・アルカティーブ &エドワード・ワッツ 『娘は戦場で生まれた』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年2月17日 / 新聞掲載日:2020年2月14日(第3327号)

絶望的な世界のなかに希望を見出す
ワアド・アルカティーブ &エドワード・ワッツ 『娘は戦場で生まれた』

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2/29(土)〜シアター・イメージフォーラムにてロードショー、
全国順次公開 © Channel 4 Television Corporation MMXIX
 二〇一一年、シリアでアサド政権への抗議活動が始まり、翌年に北部の都市アレッポは内戦状態に陥った。一五年にロシアが政権を支持して軍事介入し、事態はさらに悪化する。ワアドはこの内戦を撮影する一方で、医師のハムザと出会って結婚し、娘のサマを産む。ワアド・アルカティーブ&エドワード・ワッツのドキュメンタリー、『娘は戦場で生まれた』は、彼女が撮った映像を編集したものだ。

映画の中盤で、全身に傷を負った妊娠九か月のある女性が横たわり、急遽、ハムザが帝王切開を行なう。だが、取り出された赤ん坊の反応がない。彼が必死にマッサージを繰り返すと、赤ん坊が蘇生して泣き出す。場面が変わり、ロシアがこうした病院を次々と爆撃する。ワアドはある用事で、夫のハムザと幼い娘とともにアレッポを離れるが、すぐ街に戻る。戻るのは危険だが、そうせずにはいられない。自分だけ助かればいいという訳にはいかないのだ。この一連の描写が素晴らしい。

帝王切開の場面は、観てただちに快いものではない。開腹と激しいマッサージ、母子の瀕死の状況は痛ましく、不快と感じられそうな形容しがたい何かを含んでいる。だが、感性では捉えきれないその何かも、理性に照らして受けとめれば、不快とは対極的なある種の美として輝き出す。この美は、カントが自然について語った力学的崇高に類するものだ。

爆撃が続くアレッポの光景は地獄絵図のようだ。だが、焼け焦げたバスに乗って遊ぶ子供たちの姿に束の間の美を見出すだけでは、映画の魅力は理解できない。ワアドが夫と娘とともにアレッポに戻る場面では、彼女の振舞いが毅然として感動的だ。この行動は、「両親は私が頑固で無鉄砲だといつも言っていた。その意味が分かったのは、娘ができてからだった」という、彼女自身が冒頭で行なうナレーションと関係している。もっとも、彼女は映画を通じて常に毅然としている訳ではない。むしろ、彼女は街の凄惨な状況を前にして悲嘆にくれ、娘をこんな世界に産んだことに罪悪感を覚えて、「許してくれる?」と問いかける。だが、結局はいつも理性が彼女の行動を支え、周囲の出来事の撮影を頑固なまでに続けさせる。そして彼女はこの撮影を通じて、絶望的な世界のなかに希望を見出すのだ。

二〇一六年一二月にシリア政府はアレッポを陥落させた。そのため、映画のラストで、ワアドたちもアレッポの脱出を強いられる。街を逃れながら、彼女はナレーションで、「時間を巻き戻せたらまた同じことをする」と断言する。これこそが、母親に指摘された彼女の「頑固で無鉄砲」な性格なのだ。内戦が続くアレッポの人々に自由などないと、人は思うかもしれない。だが、「また同じことをする」というのは、自分はすべきことをしてきたということだ。彼女は常に自分の道を自分で選んできた。これこそが真の自由というものだ。

描かれる光景は陰惨でおぞましい。ワアドの人生も一見、不幸で耐え難い。では、『娘は戦場で生まれた』は、世界の醜さを告発する報道の役割しか果たさないのか。そうではない。理性に照らして彼女の人生の物語を受けとめれば、物語は高貴さをまとって輝き出す。その時、簡素な機材でとっさに撮られた、時に粗雑でさえあるショットの数々が限りない豊かさを示す。それがこの映画の魅力である。

今月は他に、『フォードvsフェラーリ』『リチャード・ジュエル』『レ・ミゼラブル』などが面白かった。また未公開だが、ブノワ・ジャコーの『最後の愛』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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