赤星鉄馬 消えた富豪 書評|与那原 恵(中央公論新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年2月15日 / 新聞掲載日:2020年2月14日(第3327号)

赤星鉄馬 消えた富豪 書評
触媒役として歴史を大きく動かした、快男児の生きざま

赤星鉄馬 消えた富豪
著 者:与那原 恵
出版社:中央公論新社
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 赤星鉄馬の名には覚えがあった。ブラックバスについて調べていた時に見掛けていたからだ。たとえばウィキペディアに以下の記述がある。「1925年、実業家赤星鉄馬がアメリカのカリフォルニア州(Santa Roza)からオオクチバスを持ち帰り、箱根の芦ノ湖に放流したのが最初とされる(約90匹)」。

今、ブラックバスについて関心を持つとしたらルアーフィッシングに興味があるか、外来生物問題を調べているかのどちらかで、最初にそれを持ち込んだ人物を知りたかったわけではないだろう。後者であった筆者もその例外ではなく、アカボシテツマの名を記憶に残したものの、それ以上に調査を進めることはしなかった。

そんな経験があったゆえに本書には衝撃を受けた。迂闊にも逃してしまった魚の大きさを後から思い知らされたような気分になった。

赤星鉄馬は一八八二(明治十五)年に東京で生まれる。父・弥之助は薩摩藩出身の実業家で、軍需品を扱う政府御用達貿易商として巨万の富を築いた。母・静は台湾総督などを務めた樺山資紀の姪に当たる。一八八七(明治二〇)年に海軍次官となっていた樺山資紀が一年に及ぶ欧米視察に出た時には弥之助も随行し、後に首相となる山本権兵衛など明治政府高官の知遇を得ている。

弥之助が死去したのは一九〇四(明治三十七)年。鉄馬は莫大な資産を相続するが、その使い方がユニークだ。一九一三(大正二)年に設立された千代田火災保険株式会社では個人株主として最大数の株を所有する出資者となり、監査役を務めた。これが生涯の肩書きとなったが実業志向は強くはなく、むしろ人と出会い、人と人を出会わせることに熱心だった。紳士社交クラブ「東京倶楽部」を立ち上げ、ピーク時には皇族、貴族、財界人など日本人二百五十人、駐日大使館員や外資系企業経営者などの外国人百七十六人の会員を集めた。会員たちは共通の趣味でつながって日本人による最初のゴルフクラブ「東京ゴルフ倶楽部」や、釣り愛好者が集まる「丸沼鱒釣会」を派生・発展させている。

人材育成にも情熱を傾け、一九一八(大正七)年に百万円(現在の通貨価値であれば二〇億円)を基金として提供して日本初の本格的な学術財団とされる「啓明会」を設立、基礎的な研究や学術出版活動を助成した。

しかし、こうしたコミュニティ作りやパトロン活動で、鉄馬は裏方に徹したがゆえに歴史に名を残すことがなかった。著者はそんな「消えた富豪」の足跡を丁寧に辿る。本人周辺の人間関係を洗い上げ、外堀から埋めてゆく作業は、具体的業績の豊富な人物の評伝執筆よりも遥かに難易度が高かったはずだが、本書は、自ら手を下さず、触媒役として歴史を大きく動かした快男児の生きざまを鮮やかに描き出した。

鉄馬がしたことで唯一、形になって残ったのがブラックバスの移入だった。アメリカ留学時代にバス釣りを楽しんだ鉄馬は、食べても旨いブラックバスが日本の食糧事情を改善させられるのではないかと考え、水産学者に調査を依頼、芦ノ湖への放流を決めた。決定の背景にはブラックバスが繁殖しても他の水域に影響を与えにくい、独立性の高い水系であることが配慮されていたようで、鉄馬も「新生物の移殖を無自覚、無反省に行うことはかえって将来に禍根を残す」と書き残している。

そんなブラックバスが今や日本全国に広がり、生態系への脅威となっている。鉄馬と同じ釣り好きだが、生態バランスへの配慮を共有しなかった人たちが野放図に放流を続けてきた結果だ。裏方に徹したはずだった自分の名がよりによって外来生物問題の文脈で登場することは鉄馬にしてみれば不本意だったろうが、本書はその名誉回復にも役立つだろう。
この記事の中でご紹介した本
赤星鉄馬 消えた富豪/中央公論新社
赤星鉄馬 消えた富豪
著 者:与那原 恵
出版社:中央公論新社
「赤星鉄馬 消えた富豪」は以下からご購入できます
「赤星鉄馬 消えた富豪」出版社のホームページはこちら
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