『講座「現代芸術」Ⅴ 権力と芸術』(勁草書房) 過去一世紀の苦渋――十一の論文に一貫した主調低音 評者:江藤淳 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月19日号|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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  5. 『講座「現代芸術」Ⅴ 権力と芸術』(勁草書房) 過去一世紀の苦渋――十一の論文に一貫した主調低音 評者:江藤淳 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月19日号
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更新日:2020年2月9日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第225号)

『講座「現代芸術」Ⅴ 権力と芸術』(勁草書房)
過去一世紀の苦渋――十一の論文に一貫した主調低音
評者:江藤淳 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月19日号

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アーヴイング・ホウの「小説と政治」という評論は、アメリカの政治権力と知識人との関係についてきわめて注目すべきことをいっている。ホウによれば、アメリカでは合衆国そのものの実在が、そのまま「自由、平等、友愛」という理念 ・・の実在と等価であり、すでに政治思想間の「劇」は終ったということになっているから、個人と政治権力との関係はおおむねあいまいなものとならざるをえない。

同様のことは、一層複雑な、一層極端な形で、わが国の政治的状況にあてはまるであろう。それはいわば政治的に閉鎖された状況である。天皇制の理念は、現に、「自由、平等、友愛」の理念に数倍する厚い壁を、われわれの意識や行動のまわりにめぐらしている。そこで繁殖するのは、人生論的、あるいは「生活」か「政治」かといった二値的発想であって、「劇」的な論理、戦うべき真の対象をとらえた論理ではない。そこでは敵の姿は、つねにあいまいなもののなかに消滅し、偽りの敵に置換されていく。この本のなかに収められた十一編の論文が、それぞれの角度から試みようとしているのは、そのあいまいなもののなかから、「真の敵」を掘りだし、それに明瞭な輪郭をあたえようとすることである。その立場がもっとも明確に示されているのは、たとえば竹内好氏の、「権力と芸術」の次のような部分においてである。

《日本の国体(天皇制)は、気体であるゆえにナチの指導者をうらやまがらせた強力なイデオロギイを発揮したが、そのイデオロギイのゆえにあたら有能な芸術家たちが骨を抜かれたのである。ここに根本の虚偽がある。不道徳と頽廃のすべての根本がある。この根本の虚偽を不問にしておいて美的価値を論ずることはできない。》

この指摘に、過去約一世紀のあいだ、われわれの経験してきた苦渋がにじみでているのはいうまでもない。この苦渋はほかの論文のなかにもあって、この巻の一貫した主調低音をなしている。すなわち、花田清輝氏「支配階級の芸術意識」ではチャタレイ裁判の問題が、杉浦明平氏「文学者の政治意識」では「庶民」的文学者井伏鱒二の場合が、野間宏氏「芸術と実行」では啄木が自然主義文学が自然主義文学について提起した問題がそれぞれ検討され、佐々木基一氏と吉本隆明氏の論文では、小林秀雄のイデオロギーとプロレタリア詩の挫折についてのかなり深い考察がそれぞれの傷跡を率直に示しながら行われているのである。

しかし、竹内好氏が鋭く指摘するように、もしわれわれが「一木一草」のなかにある「天皇制」、そのフィルターを通して浸透してくる政治的権力を意識しえなくなったとき、右の各論で叙述された挫折の歴史は、ふたたび挫折の歴史としてのみくり返されねばならないであろう。その危険はすでにあらわれている。その故に一層、このような努力が行われたことの意義はすくなくない。(えとう・じゅん=文芸評論家)

『講座「現代芸術」Ⅴ 権力と芸術』(A5判・三二六頁・三五〇円・勁草書房)
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