松浪信三郎エッセイ 実存主義の潮流――文学者に思想性を 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月26日号|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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  5. 松浪信三郎エッセイ 実存主義の潮流――文学者に思想性を 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月26日号
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更新日:2020年2月16日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第226号)

松浪信三郎エッセイ
実存主義の潮流――文学者に思想性を
「週刊読書人」1958(昭和33)年5月26日号

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最近フランス哲学者ユイスマンが『現代哲学の展望』と題する大きな本を書いたが、そのなかで、著者は実存主義(エグジスタンシアリスム)をきわめて広い意味に解して、キェルケゴール、ニーチェはもちろん、フッセル、ハイデッガー、ヤスペルス、マルセル、サルトル、ムーニエあたりまでをみなこの表題の下にふくめている。実存主義という名称は、欲する欲しないにかかわらず、二十世紀の哲学思想のひとつの主流を表現するものとなりつつある。

そうはいっても、実存という概念について哲学者たちのあいだに完全な一致があるわけではない。しかしわれわれは、ごく大ざっぱに「実存」を「事物存在と異なる人間独自の存在」というくらいに受けとってさしつかえないであろう。

人間が事物のように他有化され集団のなかに平均化されていくのが二十世紀の歴史の必然的傾向であるとすれば、その必然に対してあくまでも人間独自の存在を明らかにし、それを守りぬこうとする意欲のあらわれが、実存主義の名のもとに包摂されるすべての哲学をつらぬいている。「実存主義はヒューマニズムである」というテーゼは、その意味で現代哲学の基本的な方向を明示したものである。

ところが、文学の領域では、必ずしも実存主義がひとつの大きな潮流をなしているように見えない。もともと文学者は、自分独自の創作活動をしているので、イズムで自分をしばることを欲しない。だから、実存主義的傾向の作品などという言いかたは、批評家がよそめでそう判定するだけのことである。しかし、二十世紀の哲学の大きな潮流が実存主義であるように、それに対応する大きな潮流が文学の分野に見られないわけはない。それは、こころみに現代フランスの文学を展望してみればわかることである。プルースト、ジイド、アランなどを過渡期として、マルロオ、カミュ、サルトルなどは、共通した何ものかを示している。この何ものかは、十九世紀の作家がとりあげなかった問題であり、美的な鑑賞の対象とならない問題なのである。生きた歴史のなかにおける人間の行動が問題なのである。

二十世紀の哲学は、人間を「世界―内―存在」「状況―内―存在」としてとらえたが、文学の方でも、状況のなかにある人間の生きかたを表現することが問題になっていることは明らかである。そういう意味で、実存主義という名称はどうでもいいが、二十世紀の文学の大きな傾向があることは否定できない。

日本では、世界の思想や文学と歩調をあわせ、共通の問題と取りくむようになったのは、ここ二、三十年のことでしかない。あるいは戦後のことでしかないといってもいい。実存主義にしても、はじめは作家や批評家のあいだにとんでもない誤解があった。サルトルの『水いらず』が紹介された当時、実存主義とは性的暴露の文学だと早合点した人びとも多かった。織田作之助や田中英光などが実存主義作家のごとく評せられたり、田村泰次郎の『肉体の門』がそれだと言われたりしたこともあった。

だが、本当は、椎名麟三あたりこそ、実存主義作家の名に値いするだろう。『邂逅』という作品などは、ひとつの試みであるとはいえ、そういう意義をもっている。日本の場合には、少くとも批評家がもう少し現代哲学の勉強をしなければならないだろう。(まつなみ・しんざぶろう=早稲田大学教授・フランス哲学専攻)
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