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更新日:2020年2月21日 / 新聞掲載日:2020年2月21日(第3328号)

追悼・奈良原一高
撮ることで「今日生きること」を考えた

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奈良原 一高氏
 奈良原一高さんが逝去された一月十九日、都内の三カ所で奈良原作品が展示されていた。世田谷美術館での「奈良原一高のスペイン―約束の旅」、JCIIフォトサロンでの「人間の土地/王国 Domains」、そして東京国立近代美術館での「無国籍地」と「王国」(「窓展」)である。いずれも会期を一週間から半月ほど残していた。まるで、作家本人が去っても作品は残る、というメッセージが添え書きされているような訃報だった。

日本の写真史において奈良原一高は、戦後に出発した最初の世代を代表する一人として位置づけられている。当時、東松照明や細江英公、川田喜久治といった、その後の写真界を牽引する才能が次々に登場していたが、なかでも奈良原の出現はひときわ鮮やかなものだったと伝えられる。ほぼ無名の、美術史専攻の大学院生が一九五六年に開催した個展「人間の土地」は大きな反響を呼んだ。一週間の会期が終わったとき「僕は写真家と呼ばれていた」と、後に写真家は記している。

「人間の土地」は斬新な作品だった。桜島の噴火によって火山灰に埋まった黒神村と、周囲わずか一・二キロの炭鉱の島、端島(軍艦島)を舞台とする二部構成で、外界と隔絶された二つの土地に、奈良原は「自然対人間」、「社会機構対人間」という図式を見出し、その状況を撮ることで、「今日生きること」を考えようとしたのだ。

その問いは、戦時に育ち十代半ばで敗戦という大転換を経験した奈良原たちの世代が直面したであろう、自分たちの立脚点は、他ならぬ自分たち自身で探らねばならないという切実な意識に基づくものであり、現実を見据えつつ、自らの実存を問うその方法を、奈良原は「パーソナル・ドキュメント」と呼んだ。画角の異なるレンズを効果的に用いた表現の巧みさととともに、作品を重層的に構築する、この独創的でスケールの大きな構想力こそが、その作品世界を際立たせていた。

国境を軽やかに越える人でもあった。一九六〇年代の滞欧と七〇年代の滞米という二度の海外での長期滞在は、それぞれ「ヨーロッパ・静止した時間」、「消滅した時間」という充実した成果を生む。それとともに、現地で得たさまざまな知見を、奈良原は日本の写真界にもたらした。その一つが美術館事情で、欧米では写真家がアーティストとして遇され、美術館が当然のように写真をコレクションし、展覧会が開かれていた。

国内の状況が本格的に変わったのは九〇年代。東京国立近代美術館も一九九五年、建替えられた京橋のフィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)の最上階に設けた展示室を拠点に、写真部門を発足させた。鍛冶橋通りに面して建つフィルムセンターを、奈良原さんは「ニューヨーク近代美術館みたいに、通りからそのまま入れるところがいい」と褒めてくれた。今思えば、国立という看板には不釣り合いな、写真部門のささやかな船出と、その駆け出しの担当者に対する、励ましと期待の言葉だったのだろう。

その後、写真部門は竹橋の本館に移った。二〇一四年、その本館で、初期の代表作である「王国」による個展を開催したとき、奈良原さんはすでに療養生活に入って久しく、展示について直接相談することは叶わなかった。しかし写真家自身が緻密に構成した写真集に沿って展示を組み立てるという選択に、迷う余地はなかった。展覧会を準備しながら思い出したのが、かつて頂いた言葉だった。

あの時の励ましと期待に、少しは応えられているのだろうか。訃報に接し、改めて自問している。(写真:奈良原一高アーカイブズ提供)(ますだ・れい=東京国立近代美術館主任研究員)



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