演じられる性差 日本近代文学再読 書評|関 礼子(翰林書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2020年2月22日 / 新聞掲載日:2020年2月21日(第3328号)

演じられる性差 日本近代文学再読 書評
文学テクストの動態を捉える
表象のパフォーマティヴィティの可能性

演じられる性差 日本近代文学再読
著 者:関 礼子
出版社:翰林書房
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 本書は「「演じられる性差」という視角を軸に、近代文学を再読しようとする」試みである。演劇や映画についても論じられているが、「演じられる性差」とは、上演時の行為を指しているわけではない。それは、文学作品中に描写される身体、および、それらが絵画、演劇、映画といった視覚表象に置き直された際にあらわれる身体に向けられた関心と、まずは捉えることができる。その上で目指されているのは、そこでの「身体」がジェンダー規範を「再演」していることへの留意とともに、規範と「ふるまい」との齟齬への注目である。

全体は、樋口一葉作品および、木村荘八、鏑木清方らによる絵画化の事例を捉えた第一章、自然主義文学の隆盛とともに演劇熱が高まっていた一九一〇年前後の、泉鏡花、森鷗外、夏目漱石作品を論じた第二章、敗戦後の谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成らの作品と、同時期の文学作品の映画化について論じた第三章からなる。ここに、一九七〇年代から今日までの文学研究の流れの整理を含んだ「序章」と、水村美苗『続 明暗』を取り上げた「終章に代えて」が加えられた構成である。

対象は多岐にわたるが、分析の焦点は、大きくは文学的事象の動態に向けられているといってよい。ある文学作品が他作品の創造に影響を与えている様や、アダプテーション、二次創作への展開といった、いわゆる「受容」の動き—「再読」の創造性—、さらに表象が引き起こす「ジェンダー・トラブル」の諸相である。

なかでも重点が置かれているのは、「ジェンダー・トラブル」の内実を明らかにしようとすることである。著者はジュディス・バトラーのこの概念について、「トラブル」は「「何か面倒な事態」を明るみに出すための恰好な契機」であると了解するとともに、「「通常は隠されている何かを明るみに出す」ことになる「トラブル」とはいわば文学テクストが目指すこと」と述べ、つまりは「テクストの存在意義とほぼ同義といえる」と意味づける。ジェンダーをめぐる問題を露呈させ、規範を変容させる可能性の端緒が、「文学テクストの力」—行為遂行性と捉えられるのだ。著者はそれを明らかにするための有効な分析手段として、ジェンダーという「重要な課題」と、語り論という「有効な方法」を接続させる。

各論の中でも特に、男性ジェンダーの継承と、そこに生じる「トラブル」の内実に迫った第二章五節「漱石「心」の二つの三角形 係争中の男性一人称が生成するもの」は本書の様々な問題意識が密接に結びついた論考となっている。男性ジェンダーの継承は、それぞれの自死を招くものであり、遺書という語りの形式は、静が主体として立ちあらわれることを不可能にするものであった。

また、「再演」の過程に生じる変革の可能性は、漱石の未完の小説『明暗』と、それを書き継いだ水村美苗『続 明暗』を検討した「終章に代えて」にみやすい。著者は、『明暗』結末部で語りの焦点がお延へ変化したことに注目し、それが『続 明暗』の「主体性」を持ったお延像の創出に結びついたと指摘する。つまり、「語り」の変化にあらわれた、ジェンダー規範への抵抗が、読者—二次創作者—によってテクストの可能性として見出されたことを評価するのだ。

価値が発見されなければ、芸術作品は死を迎える。受容時に生じる「創造性」への留意には、文学作品が「死後の生」(ベンヤミン)を得てきた様を捉えようという著者の思いとともに、本書の試みそのものに、テクストの「生」永続への願いが込められていることを感じさせる。(ささお・かよ=神戸女学院大学准教授・日本近現代文学)
この記事の中でご紹介した本
演じられる性差 日本近代文学再読/翰林書房
演じられる性差 日本近代文学再読
著 者:関 礼子
出版社:翰林書房
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