歌壇時評(1958年5月) 混乱する現代歌壇――難解さはその現代詩化に由来する 評者:斎藤正二 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月12日号|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年2月16日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第226号)

歌壇時評(1958年5月)
混乱する現代歌壇――難解さはその現代詩化に由来する
評者:斎藤正二 「週刊読書人」1958(昭和33)年5月12日号

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最近の短歌や俳句はむずかしくて、何をいおうとしているのか分らない、という声をたびたび耳にする。この率直な声が単に総合雑誌の読者層からだけでなしに、いわゆる歌人・俳人と称される作者のがわからも起っているところに問題の重大さがある。

短歌の場合でいえば、前衛短歌と呼ばれる一派が起って「孵卵器のごとき市電が雨中過ぎ死せるバルバラ・生けるバルバラ」(塚本邦雄)、「少年のポッケの底に玉蟲が産卵す若き世代信じて」(岡井隆)といった作品がその代表旗手の位置に仰がれ、商業ジャーナリズムもなんらの疑いもなくひたすら新品種であれば珍賞するといった風潮が起っている。もっともこうしたモダニズムの傾向に対して、つとに左翼からの批判が加えられていた。

確かに前衛短歌は個人主義的生活論理から出たものであり、マスコミ体制の間をぬって一旗挙げようとする青年の浪曼主義のはけ口に相違ないが、本質論としては、前衛短歌がその動機と理論付けをことごとく現代詩――とくに「詩と詩論」当時のポエジイ運動に負うていることを指摘すべきであろう。そして、この一派の標榜する「革命」が、短歌から伝統的発想法を排除して現代詩的イメージをこれに代置しようとする試みに他ならぬことを弁別する必要がある。

だから前衛短歌の難解さという現象は実体的には直ちに現代詩が不可避的に荷っている難解さにつながることを知らねばならぬ。しかも現代詩のもつ数々のモティフやイメージ重畳の方法は本来音律の否定を前提とするものだったから、前衛短歌の中には一種奇妙な混和物が作り上げられてしまい、これが更に難解さを倍重させた。この混和と思考的矛盾のために、現代詩の作者からもこんにち不審をもって見られているのも当然であろう。

こうして伝統短歌からも現代詩からも信頼を欠く前衛短歌は、矛盾ゆえに却って個性を主張しかつ悲壮がっているわけだが、これは創造精神とはなんの関係もないものである。それどころか、私は前衛短歌とは現代詩の「編集」に過ぎないと断定したいのだ。こんなことでは短歌はいよいよ衰頽するばかりであろう。

もともと現代短歌がげんに陥っている貧困や無秩序そのものが晶子、啄木、プロレタリヤ口語短歌など数次にわたる「近代詩化」の試みに原因していた。(新刊の窪田空穂他編『明治短歌史』同『大正短歌史』―各A5判・二九〇頁・三九〇円・春秋社―が資料的にもそれを裏打ちしてくれている)滅亡論や否定論の鞭音の下で、多くの歌人たちが世界をひろげようとした意図も理解できないわけではないが、短歌固有の功徳と近代詩と交換売買してまで近代文学としてのパスポートを獲ようとした企てがやがてこんにちの混迷を招来した過程から目を逸らすべきではない。短歌が真に国民詩であるための方途とは、なにも現代詩に向って質的転化しかつ解消することではない。

おもうに現代俳句の根本性格もまた同断であって、かつての新興俳句運動も通説の如く花鳥諷詠ないしは俳諧趣味への反逆ではなく、却って俳句をして現代詩に変質せしめる企てに他ならなかった。げんに前衛短歌が新興俳句を先蹤に仰いでいるのも、その良い証左だ。

こんにちの短詩形文学が存在理由を確保し得る唯一の途は、やはり伝統生に還ることだと私は信ずる。この国の生活様式・民俗が改変しない限り、否むしろ改変し難いがゆえに短歌や俳句は固有の機能をになうはずである。短歌的抒情や花鳥諷詠に反対する歌俳人は、かれらがそれだけは非難さるべき根拠をもたぬと考えている自身の新しい世界が、却ってかれらが憎しんでやまぬ短歌的抒情や花鳥諷詠のお蔭で確保されていることを、この際反省すべきではないか。(さいとう・しょうじ=文芸評論家)
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