東洋/西洋を越境する 金森修科学論翻訳集 書評|金森 修(読書人)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年2月29日 / 新聞掲載日:2020年2月28日(第3329号)

東洋/西洋を越境する 金森修科学論翻訳集 書評
さまざまな問いを触発する八編
「ディーセント」という言葉がふさわしい、その人間と思想

東洋/西洋を越境する 金森修科学論翻訳集
著 者:金森 修
編集者:小松 美彦、坂野 徹、隠岐 さや香
出版社:読書人
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 金森修はフランス語でも数々の論考を著していた。その中から病床にあって金森自身が選んだ八編を、彼に縁のある研究者たちが日本語に訳して一書とした。目次には宮沢賢治、バシュラール、ベルクソン、二宮尊徳、加藤弘之、丘浅次郎、下村寅太郎の名が並び、最後にリスクという言葉がある。一見、「フランス語で書かれた」こと以外の脈絡はつかみづらいかもしれないが、読み進むうちにその懸念は払拭される。本書の構成には、かりに金森自身が編んだとしてもこうであったに違いないと思われるような、ある種の力学が具わっている。そしておそらくはそれゆえに、本書は金森修という科学思想史家の精神のたたずまいを――彼の他の著作と同じかあるいはそれ以上に――深く印象づけるものとなっている。

本書前半の宮沢賢治論、バシュラール論、ベルクソン論は、さながら認識の境界をテーマに描かれた三幅対の絵のようである。賢治論で金森は、物質的想像力の理論という「バシュラールのレンズを通じて、〔賢治を〕再読する」ことを試みる。そこからはこれまでにない賢治の世界への視界が開かれ、賢治の魅力に新たな彩りがもたらされる。それだけではない。「異文化間の類似性と基本的他者性」の襞に分け入ってゆくその読解は、「東洋/西洋を越境する」応用研究のまさに一つの範例にもなっている。こうしたことを可能にしているのは、賢治論に託された二重の企図だろう。その企図とは一つに、賢治の豊饒なイマジネールの「無意識」を浮き彫りにし、そこから他の日本のすぐれた作家・詩人をも対象とした「興味深い作業の大いなる可能性の沃野」を拓くことである。また一つは、賢治の世界をいわば「砥石」にしてバシュラールの「レンズ」を磨き、認識におけるその哲学の可能性を検証することである。そしてこの後者の企図が、後に続くもう一つのバシュラール論へと読者を誘う。

バシュラールには科学認識論というまた別の「レンズ」がある。金森はここでその実験装置の哲学に照準を合わせる。現代では科学的な思考はもとより、現象自体が実験装置性を具えている。そのことが意味するのは、実験装置は知を物象化するということ、科学技術が私たちの生と不可分である今日、「知性が示す効力の大部分は実験装置という、みたところ屍に極めて近い痕跡のなかにこそある」ということである。伝統的な哲学からすれば身も蓋もない話だが、そこに金森はむしろ積極的な意味を見いだす。なぜなら、たとえひと時ではあれ実験装置がその時までの知を物象化すればこそ、しばしの間ひとは技術的な試行錯誤から解き放たれ、その分、「最終的にはそれ自体は実験装置には属さない何かであるところの創造的精神」に余地が与えられもするからである。バシュラールはその余地が自身の哲学への留保となることをすすんで認め、金森はそれを哲学的議論の党派性から超然とした「率直さの印」と讃える。そのことはまた、金森自身が認識論の探究において、何を大切にしていたのかを物語ってもいよう。

ベルクソン論はある意味、このバシュラール論を反転させたものとして読むことができる。金森は、バシュラールの裔とも言えるダゴニェと、カンギレムの視点から見たアランの分析から、「純粋なベルクソン主義に全面的に従うことは実行不可能である」と論じる。なぜなら、持続する運動を瞬間へと、現象を形態へと固定することは、日常の有用で実践的な認識だけでなく、理論的認識一般を得るためにも必要なことであり、実際にもそれが、世界についての私たちの理解を豊かにしてくれているからである。それゆえ金森は、ベルクソン的持続の手前に認識の境界を引く。しかしそのことは、ベルクソンへの深い敬意を失わせはしない。彼の哲学には消し去ることのできない意義がある。その意義とは、「純粋持続という概念が、われわれが認識を形成するときにはいつでも本質的な要素を見落とす可能性があることを思い出させてくれる」こと、あるいはこう言ってよければ、認識とはあるがままの実在を歪め、裏切り、損なうことなしにはできないと自覚させてくれることである。そして読者は、本書を読み進むうちに、そうした自覚が金森にとって認識論的な義務であったことに気づくだろう。

その金森が、私たちはどこから来てどこへ向かおうとしているのか、また向かうべきなのかを問う時、彼ならではの思想史が紡ぎだされる。本書後半に並ぶ四つの論考はその実例であって、たんなる「東洋」の紹介と見るのは皮相的だろう。そのことは加藤弘之論の冒頭の、「ある文明の現段階の価値を判断するために、過去を抑圧することがよい方法でないことはいうまでもなく、またこの忘却が、同様の危険思想の再現を許してしまうことを恐れるべきである」という言葉にも明らかである。加藤の物理学主義と丘浅次郎の生物学主義は、認識論的な「率直さ」とも「義務」とも無縁であった。国家主義のイデオローグとなりゆく二人の思想を厳しく糺しながら、しかし金森は、その評価にあくまでも公正を期そうとする。同じ姿勢は二宮尊徳論にも見いだされるだろう。金森は戦前の加藤らの歪曲にも、戦後マルクス主義の一面的批判にも与せず、「同時に反動でありまた社会改革者」でもあった一人の人間として尊徳を甦らせる。私たちは加藤も岡も尊徳も理解した気になり、忘れてきた。けれどもそれは、歴史と人間に対する不遜であり、現在と未来の認識を誤らせもする。そうであるとするなら、金森が尊徳らを論じたのは、彼の視点の幅広さだけでなく、奥深さの証でもあると見るべきだろう。またそのような金森であればこそ、下村寅太郎の「近代の超克」における発言の意味を彼の機械の概念から解き明かし、「自由で活動的な主体は、近代以降、自己の身体を人工的装置によって強化する」というその先見の明を、思想史に書き加えることができたに違いない。

金森は尊徳論の最後に、彼の思索と実践の根底には「切迫した恐怖」があると指摘し、「その恐怖とは、渇きと飢えを満たすという最も基本的な生の欲求に駆られたものであり、こうしたものはいかなる学問的解釈も捉えることはできないだろう」と記す。ひとが生きるということへのそうしたまなざしのありようからあらためて本書を振り返る時、金森修という人間と思想には「ディーセント(decent)」という言葉がふさわしいとの思いを深くする。リスクの概念をイデオロギー的に利用し、人びとの生のかけがえのなさを蹂躙して痛痒を感じない専門家たちは、その言葉から最も遠いところにいる。それゆえ終章で金森が、彼らを苛烈なまでに批判してやまないのも驚くべきことではない。金森は「直感的な印象や、日常的な知恵や、質的な判断や、現地の伝統的ないし民族的な知などに一定の敬意を払いつづける」必要を説く。本書において彼の思索の軌跡をたどってきた読者なら、その一言の意味を見誤ることはないだろう。

本書は読み終えてなおさまざまな問いを触発する。賢治のイマジネールの「無意識」、ベルクソンの「純粋持続」、そしてバシュラールが「概念可能性」と呼んだあの余地は、互いにどのような布置にあるのだろうか。あるいは、実験装置の哲学の傍らに下村の機械の概念を置くとき、何が見えてくるのだろうか。金森の答えを聴くことはできないが、彼はまたそのような形でも、「興味深い作業の大いなる可能性の沃野」を遺してくれたのだと考えたい。深い余韻に満ちた一書である。いまそれを手にできることをよろこばしく思う。
この記事の中でご紹介した本
東洋/西洋を越境する 金森修科学論翻訳集/読書人
東洋/西洋を越境する 金森修科学論翻訳集
著 者:金森 修
編集者:小松 美彦、坂野 徹、隠岐 さや香
出版社:読書人
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