ステファヌ・マラルメの〈世紀〉 書評|原 大地(水声社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2020年3月7日 / 新聞掲載日:2020年3月6日(第3330号)

ステファヌ・マラルメの〈世紀〉 書評
「今」を見つめるマラルメのアイロニー
四部構成の十一章で、詩人の詩的想念の形成と変容を浮かび上がらせる

ステファヌ・マラルメの〈世紀〉
著 者:原 大地
出版社:水声社
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 マラルメをめぐっては、厖大な研究や批評の蓄積がある。一般には、マラルメといえば、純粋観念を追求した孤高の詩人というイメージが強いが、そうしたイメージを払拭するために、詩作を離れジャーナリストとして活動した中期(一八七〇年代)に光を当てようとする潮流もある。評者はマラルメ研究をほんの少し囓っただけだが、そのつど蒙を啓かれはするものの、「マラルメとは誰だったのか」が掴めたとまで思えることはなかなかない。個々の研究はマラルメの一時期ないし一側面に光を当て、限定的なマラルメ像を打ち出すことが多いからである。しかし本書は、マラルメ研究の蓄積を踏まえたうえで、このもっとも本質的な問いに取り組んでいる。それはすなわち、マラルメの詩人観、言語観、群衆観、時代観、自然観、女性観はいかにして形成され、時代の布置のなかでいかに変容し、作品の変遷に繋がっていったのか、と問うことである。そのため本書は、マラルメの書きものを、韻文詩も散文詩も美術批評も追悼講演も、女性に扮して書かれたモード雑誌記事もすべて対象とし、ユゴーやボードレールといった先達、また、彼自身の過去の作品との比較検討を通して、詩人の詩的想念の形成と変容のありようを浮かび上がらせている。その際、先行研究に見られるように、初期から後期の一貫性に無理に固執することなく、詩人がパリに出た一八七一年――パリ・コミューンの年――にはっきりと転回点を見るのが本書の特色のひとつである。その「断絶」、すなわち、初期のいわゆる精神的危機の脱却は、中期の韻文詩「弔いの乾杯」と『牧神の午後』の分析によって裏づけられる(第三部第八章)。「マラルメとジャーナリズム」という興味の尽きない主題が、詩人がジャーナリストとして活動した中期よりもむしろ、大衆との間に一線を画したかに見える後期において追求される(第四部第十章)のも、本書の特筆すべき点だ。引用はすべて著者による達意の訳文である。

全体は四部構成で十一章におよぶので、過不足なく紹介することは困難だが、第一部から第三部を貫いて核となるのは、初期におけるボードレールの影響とそこからの遠ざかりの標定である。それは第一部において、「未来の現象」(一八六六)と、その二〇年後の改作とも取れる「縁日の宣言」(一八八七)という二篇の逸話性をもった散文詩の比較によって行われる。物語的な散文詩という形式の選択に『パリの憂鬱』の詩人の影響は明らかだが、「未来の現象」ではそれに加えて、未来の祝祭における詩人の孤独と見世物になる太古の女というモチーフがボードレールに共通する。しかし、『悪の花』の詩人と違い、マラルメの初期詩篇に現れる詩人の「不毛」は生殖や家族を排除できず、それをわが身に引き受けざるをえないがゆえにいっそう高まるという著者の指摘は、二人の詩人の対照的な性格を表して興味深い(マラルメの「不毛」はロマン主義との対比からも特異性が引き出される)。同時代を舞台に近似したモチーフで書かれた「縁日の宣言」については、著者はそれを時間的な物語として読むことの不備を指摘し、そこではすべての出来事が「花弁のように重なる仮構」であると喝破する。

第二部ではさらに、著者は「縁日の宣言」の初出がモード雑誌であったことに着目しつつ、この詩の受け手であり登場人物でもある「着衣の女」への姿勢がボードレール的な現代性、女性観、自然観と異なることを明らかにする。両者の美術批評やマラルメのモード雑誌記事なども含めたこのあたりの分析は、途中までは、マラルメが年長詩人の矛盾に満ちた繊細な美学を受け止めきれなかったという方向でなされるので、マラルメ論というよりボードレール論を読んでいるような気になるが、最終的には、一見すると『悪の花』よりもずいぶん穏やかに見えるマラルメの美学が、世紀末の危機意識のなかで公衆の概念を更新し、自然の否定と想像力の顕揚とは異なる「自然の再創造」概念を有していたことを示し、マラルメの現代性を納得させる。

第三部第六章におけるモード雑誌記事の分析は、パリ・コミューンという時代の揺動にあまりに無頓着に見えるマラルメの文章が、実は一種の否認を通して読者に灰燼の残像を与えているのではないかと読み込み、時代に生きる詩人のアイロニーのうちにその現代性を裏づける。マラルメにボードレールのような同時代の否定ではなく、同時代人としてのやましさの感覚からのアイロニーを読み取る眼差しは、この詩人の理解を大きく進めるものだ。続く二章では、先述の通り、中期の韻文詩に、初期の不毛や自死をめぐる瞑想との訣別を見る読解が提示される。

中期における転回を経た後期散文が焦点となる第四部では、同志であったヴィリエ=ド・リラダンの死に際した長大な追悼講演(一八九〇)の分析から、たとえばジャン=ピエール・リシャールなどに見られる、「死による理想化の称揚をマラルメ詩学の原則とする」視座に「拮抗するもう一つの視座」が導き出される。ここでもやはり、読者が得るのはデカダンスから脱却したマラルメ像である。そのマラルメは、芸術家の生を「今ここで」認めるようにと、「群衆」たる聴衆に呼びかける。続いて、この群衆と詩人の関係という問題が、『譫言集』の迂遠ながら魅力的な散文の読解から、書物と新聞のもちつもたれつの関係においてほどかれる。著者がマラルメに見るのは、新聞を照らし書物を可能にする「今日という日の光」への眼差しである。評者は、本書に描かれるマラルメとジャーナリズムの錯綜した関係から、マラルメにおいて作品は読者を斥けるという図式的理解を改める必要を感じた。現代は詩人にとっての「空位時代」だというマラルメの著名な表現も、本書の解釈を経て繊細な意味を帯びるに至った。終章で示されるのも、詩人にとって芸術は滅びゆくものの永遠化ではないということである。

本書はかくして、中期のジャーナリスト活動を特別視するのではない仕方でマラルメから孤高の詩人像を引き剥がし、此岸で書き続ける務めを自覚した存在として提示し直す。破格のテクストの細やかな読みを通して詩人の深化を理解したいすべての人にとって必読のマラルメ論である。
この記事の中でご紹介した本
ステファヌ・マラルメの〈世紀〉/水声社
ステファヌ・マラルメの〈世紀〉
著 者:原 大地
出版社:水声社
「ステファヌ・マラルメの〈世紀〉」は以下からご購入できます
「ステファヌ・マラルメの〈世紀〉」出版社のホームページはこちら
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