対談=中島隆博×納富信留 「世界哲学」、違和感からの再始動 『世界哲学史 全8巻』(筑摩書房)刊行開始‼|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年3月6日 / 新聞掲載日:2020年3月6日(第3330号)

対談=中島隆博×納富信留
「世界哲学」、違和感からの再始動
『世界哲学史 全8巻』(筑摩書房)刊行開始‼

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第5回
哲学の多元性、複数性の意味を追究する

納富 信留氏
中島 
 二つの世界大戦と冷戦の後、私たちは何をどう考えるのか。フランシス・フクヤマのように、「歴史の終わり」といえれば楽ですけれど、そんな簡単には済ませられない。ここにおいて哲学の再定義は、最重要事項です。なぜいま中国哲学なのか、という問いに答えなければいけません。同時に、なぜドイツ哲学なのか、なぜギリシア哲学なのか、と自分で自分に問わないといけません。自明なものなどないですから。そういうラディカルな問いかけが、この『世界哲学史』にはあると思います。
納富 
 「世界哲学」は、現代の生命倫理や環境など、アクチュアルな問題を見据えるプロジェクトで、そのためにこそ哲学史が必要でした。しかし目的は哲学史の見直しの先にあって、未来にむけて現在をどう考えるのか。哲学の射程は、世界規模、地球規模であると思っています。

八巻まで一応目次が出来ていますが、見渡すと西洋哲学が半分以上。やはり西洋偏重だ、といわれても仕方がないですね。ただ実際に携わっている人数の比率からいえば、このぐらいのバランスになるだろうと思うのです。

一・二巻は古代、三から五巻は中世、六・七巻は近代、八巻は現代と区分していますが、近代になるにつれて、西洋が多くなり、インド哲学などは出てこなくなりますね。逆にこの目次だけでも、帝国主義による植民地化で、西洋に支配された事実もみえてくるように思います。中国は明、清まで独自の学問伝統を維持していますが、他はアフリカも含め、西洋に絡めとられている。
中島 
 十九世紀のヨーロッパ哲学の言説は、非常に強力だったわけですよね。
納富 
 それまでの西洋文明の蓄積と、自然科学の発展も大きな力を持っていたと思います。

科学や経済について我々は、基本的に共通の一つのコードで動いていますよね。一方、我々が生きている世界は分断していて、文化や価値がそれぞれの文明ごとに多元的に存在します。文化と言語で断絶され議論がなりたたない多元的な文明が、この世界には共存している。それはいったいどういう構造の世界なのか、実はあまり考えられていない。

先ほどの話のように、哲学の「普遍性」についての問い直しが必要ですが、科学が持っている普遍性と、哲学や倫理や宗教が持っているものとは、特定の状況下で、同一であるべきだと思うんです。そこを統合しないと、科学と、哲学や宗教は異なる世界にあって、我々は二つの別の世界を生きている、というような状況が続く。これは気持ちが悪いですよね。実際いろいろと奇妙なことが起こっていると感じます。文化としては衝突していながら、経済では同じ基準で売り買いしているとか、神に祈る人々と祈らない人々がいるけれど、同じようにミサイル攻撃を行うことがあるとか。

そういう社会のどこに哲学は位置するのか、という問いに、哲学は西洋のフィロソフィーのみならず、多元的であり文化ごとに違う知があるのです、という返答では甘いのではないかと。多元的に個々を認める姿勢は寛容だからよし、などと簡単にいってしまってはいけないのではないか。
中島 
 「世界哲学」とは、世界の諸哲学を集める、ということではないんですよね。世界には地域哲学が多元的にあるので、それぞれを尊重すべきだという構え方に対しても、その哲学的意味を問わなくてはいけない。多元的で、複数あるとは、哲学的にどういう意味なのか、と。

「複数の近代論争」というものがありました。近代は一つではない、複数あるということが議論されたのです。その際、ロバート・ニーリー・ベラーは、しかし複数とはいくつあるのか、という問いを出しました。それは無限にあるのか、有限なのか。有限だとすれば、その有限性をかたち作る何らかの力が働いているのだろうが、それは何なのか。このことを考えずに、「複数の近代」といったところで意味がないと問いかけたのです。

哲学も同じで、当然、諸地域ごとに複数の仕方であるのでしょうが、では複数とは、どういうタイプの複数ですか、というところまでつきつめて問わなければいけないんですよね。
納富 
 西洋哲学による一元的支配というと、非常に政治的で嫌な感じがしますが、帝国主義に対する反発から、個々を尊重し、結果、無差別に乱立することになるのも問題です。無思考に尊重するのでなく、内容と質を見極めなければ民族主義的な独善的主張と同じになってしまいます。
中島 
 恐れているのは、ある種の極端な相対主義です。それもいいじゃない、あれもいいじゃないということで、批判を緩めてしまうことです。
納富 
 見かけは寛容だけどね。
中島 
 そうした極端な相対主義は、実はきちんと事態に向き合っていないのだと思うんですよ。哲学的な枠組みにおいて、倫理的に極端な帰結に至る、とんでもない主張もできなくはありません。例えば子供の虐待をよしとする帰結も可能なわけです。しかし、それを認めることはとてもできないですよね。

「世界哲学」を語るとき、どこかで倫理的な問題に触れざるをえない。ニーチェが道徳に関していうように、並べてみるのは大事なことですが、その先ですよね。そこまでいきたいところですが、さてどうなりますか。
納富 
 これは実験的な試みですから、この八巻で完結だとは思っていない。この本と並行して「世界哲学」の試みはあちこちで続けていくことになるでしょう。

昨年の十一月にも「世界哲学の可能性」と題したシンポジウムを学術会議で行いましたが、そこでは日本哲学や仏教学、中島さんの中国哲学や、イスラーム哲学に加えて、現代芸術の専門家の永井由佳里さんに話をしていただきました。この時代に我々は生きているのですから、物議を醸したあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」といった現在進行形のトピックも含め、考えていくのが本来の哲学だろうと思います。この本とは離れたところでも、あちこちでいろいろと、いままでの枠組みで哲学を続けようとしても難しい、その認識を共有しましょうということです。

後は立ち上げた責任として、きちんと落とし前をつけること。我々の世界ではやりっぱなしが多い気がします。近代主義、啓蒙主義に対する脱却の運動として、ポストモダンが起こり、終わった。しかしどこまでうまくいき、何がだめだったのか検証されていない。同じように社会主義についても、マルクス思想をかなり多くの方が学んだと思いますが、それにはどういう意味があって、社会はどう動いてきたのか、本来は振り返る必要がありますよね。

この「世界哲学」のプロジェクトも、力不足な点、あるいはどこまでは問題がみえたのか、そのつど検証しながら進むようにしないといけないと思っています。

このシリーズは、プロジェクトとしては、まだ寄せ集めの段階です。総勢一〇一人、いろいろな分野の専門家に参加いただくことにいまは意味があって、それぞれの論が多少対立するところも出てくると思います。それが実際の世界の在り方であり、そこから改めて考える契機にしたいし、してもらいたいと思います。
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この記事の中でご紹介した本
世界哲学史1 ── 古代I 知恵から愛知へ/筑摩書房
世界哲学史1 ── 古代I 知恵から愛知へ
編集者:中島 隆博、納富 信留、山内 志朗
出版社:筑摩書房
「世界哲学史1 ── 古代I 知恵から愛知へ」は以下からご購入できます
世界哲学史2 ── 古代Ⅱ 世界哲学の成立と展開/筑摩書房
世界哲学史2 ── 古代Ⅱ 世界哲学の成立と展開
編集者:中島 隆博、納富 信留、山内 志朗
出版社:筑摩書房
「世界哲学史2 ── 古代Ⅱ 世界哲学の成立と展開」は以下からご購入できます
世界哲学史3──中世Ⅰ 超越と普遍に向けて/筑摩書房
世界哲学史3──中世Ⅰ 超越と普遍に向けて
著 者:中島 隆博、納富 信留、山内 志朗
出版社:筑摩書房
「世界哲学史3──中世Ⅰ 超越と普遍に向けて」は以下からご購入できます
「世界哲学史3──中世Ⅰ 超越と普遍に向けて」出版社のホームページはこちら
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