表町通信 ・3月 「革命的ジャーナリズム」とは何か、それをいかに再生すべきか(続き)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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表町通信
更新日:2020年3月20日 / 新聞掲載日:2020年3月6日(第3330号)

表町通信 ・3月 「革命的ジャーナリズム」とは何か、それをいかに再生すべきか(続き)

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名護市の辺野古沖で、「既成事実化」を意図する赤土投入が強行されて一年数か月がすぎた。この一年で費した土砂が建設全体に必要な総量の一パーセントにすぎず、何より大浦湾側に、「マヨネーズ状」と呼ばれる工事の困難な軟弱地盤があることが再三報道された。いくつかの記事には、埋め立て完了に「百年」以上かかるとさえ書いていた。(世界一危険な飛行場を返還するための、やむを得ざる工事だ。)そういう口実で、返還などいつまでも生じない最悪の「現状維持」が、我々の口元に押しこめられる。反対運動を無力化するために、体制側は短期的な「火あぶり」でなく、信じがたい時間を空費する「穴つるし」(坂口安吾)の戦術を再び行使しつつある。だが、これらに対する本土の・・・反対運動のうねりはあまりに小さい。私を含めて、異議と抗議を口にする者の言葉が殆ど生きてはいない。

辺野古の新基地建設反対闘争があらわにするもの、それは沖縄でなく、本土における・・・・・・「運動」一般の未熟である。未熟というより、はるかに根の深い何かである。我々が今日体感する怠惰や立ち遅れや感覚麻痺は、隣国ロシアで革命が生じた時、ルクセンブルクが強い危惧とともに論じたドイツ労働者大衆の鈍さに酷似している(『ロシア革命論』を参照)。ただ人数が足りないのでない。その数に、質的な強度を与えて創造を促す精神的動力――事柄を沖縄だけのシングル・イシューに狭く終らせず、ある土地の暴力と別のそれとの同型性を明晰に見てとる批評精神、「立国」が所詮「私」に終り「公」でありえないことを深く洞察し、福沢諭吉と違ってその認識を現実に生きぬく勇気と行動力、天賦人権の原則をいわゆる国益に断固優先させ連帯する革命的な理想主義、そこから発して「百年」の穴つるしをねじ伏せ、戦後日本の外交を抜本的に変革する熟慮された作戦計画。それら全てが、沖縄に呼応すべき本土の・・・大衆運動に不足しているのである。

たとえば、次回の総選挙で政権交代が実現したとしよう。旧民主党系を中心とする、目を覆うほど頼りない「いつもの連中」の野党共闘がそれでも成立し、彼らが辛くも(新型コロナと山本太郎に助けられて?)衆議院で多数を制したとしよう。だが、その程度の出来事で事態の根本的な打開が可能か。新たに政権を担うであろう、毎度足元のふらつくあの連中が、その時決然と埋め立てを断念し、辺野古の新基地建設を完全撤回できると言うのか。疑いなく、答えは否だ。すでに鳩山政権以後数年の無様な空騒ぎは、この事実を理屈でなく、経験的にも我々に思い知らせた。単なる政権交代=議会内闘争の勝利が生みだす帰結は、克服し揚棄さるべき「改革幻想」(武井昭夫)をまきちらすことでしかなく、それが我々の求める、一切の付帯条件なしでの普天間基地の即時返還に少しも届かないのは明らかだ。

なぜそうなるか。それは、何度政権交代が実現しようと、それを支持して議会に絶えざる精神的影響を及ぼす有権者自体が、本土のリベラル(一国リベラル)でしかないからだ。大衆的基盤の実体が、現政権に反対する「国民」であっても決して「人民」でないからだ。法の下の平等を差別なく尊重し、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」を実行して私的な「立国」を後回しにすることなど――具体的には、沖縄に集中するあらゆる米軍基地を返還させ、治外法権=日米地位協定を除去するために、安保条約を破棄して日米同盟の害悪(ある連中が主観的に「国益」と考えるもの)を拒絶することなど、現状では到底考えられないからだ。

辺野古の問題は、シングル・イシュー主義や議会主義で決して解決しない。今確実に必要なのは、本土における返還闘争の自己変革と新たな運動主体の形成である。体制ナショナリズムをくつがえす力の源泉は、大胆で明快なインターナショナリズムの創造にあり、反体制ナショナリズムの小心な動揺のうちには存在しない。闘争の急所で、人類の利益と国家の利益、インタナショナル・インタレストとナショナル・インタレストが矛盾し衝突するまさにその時に、断固として前者を選択する大衆運動だけが、沖縄と本土が対等に連帯する新しい未来を切り開く。それこそが臆病な議員連中に緊張を与え、おそらく外交の方針をも多国間中立化政策と呼ぶべきヴィジョンに、根源的に転換させる条件なのである。

 *

以上の状況判断が適切なら――つまり、自称リアリストが「妄想」とみなすほどにそれが明快で素朴なら、当面の数的影響力がどうあれ、日本の左翼諸党派がはたすべき使命はかけがえのないほど重要である。大衆運動におけるインターナショナリズムの再生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・――彼らの、そして我々の活動理由はこの実現にあり、正確には殆どそこにしかない。共産党が「国民」政党に転落したからこそそうである。この諸党派の多くがそれぞれ、吐き気のする愚劣な誤謬(火炎瓶闘争や「内ゲバ」殺傷や敵前逃亡や性暴力の横行はその数例でしかない)に手を汚したとしても依然そうである。なぜなら、国際主義の原則にこだわり、運動主体を「国民」でなく「人民」に求める集団も他に皆無だからだ(ソ連解体時に反射的に、機敏かつ小利口に転向した元左翼は、今日自分が何をやりたいかさえわかっていない)。

むしろ真の問題は、彼らが主観的に「原則」を守り非転向を貫いたと信じるその時、とりわけ数十年にわたる逆境を強いられた今日、彼らの活動に何が生じているかにかかっている。それが「冬を越した一本の花」(大西巨人)たる資格を持つか、逆に「越冬」において何か大切な感覚が壊死してしまったか。この事実が争点になる。それについては、ルクセンブルクもロラント・ホルストに宛てて書いている、「私はいわゆる正統派〝急進主義〟がこれまで演じてきた役割に少しも満足していません。日和見主義の愚行の跡をいちいち追いかけたり、彼らへの批判をもう一度繰り返したりすることは、私にとって決して満足すべき仕事でなく、むしろこの役目に心からうんざりしています」(一九〇四年一二月一七日、伊藤成彦訳をかなり改変)。

ある原則を生きることと、その文言を鸚鵡のように繰り返すことは全く違う。二つを隔絶させるのは批評=創造行為の有無であり、我々が自らの現場で所与の原則を徹底吟味し、また原則の生成過程の延長上に、新たな認識を再び勇敢に作りだす創造を欠くのなら、当の原則自体が枯渇し死ぬだろう。ポーランド問題や資本蓄積の問題について、彼女がマルクスの亜流に異議を提示した根拠はそれなのだ。別言すれば、ルクセンブルクはとうに見破っている――日和見主義がわかりやすい転向者にだけあるのでなく、ある言説がいかに急進的外観をまとおうと、それが過去を単調に、機械的に模倣する限りで絶えず「日和見主義」が忍びこむこと、その事実が早晩あらわになることを。「党を再び〝確固とした原則〟という小屋へ連れ戻すことがぜひとも必要なのだ、という多くの急進派の友人達の確信にも私は驚いています。その場合、こういう全く消極的なやり方では一歩も前進できないということは感じていないのですから。(略)日和見主義とラディカルに闘う唯一の方法は、自分自身が前進し、戦術を展開し、運動の革命的な側面をおしすすめていくことです」(同上)。

この観点から、いくつかの運動紙の現状を見てみよう。たとえば、以下は革マル派の『解放』が昨年掲載した二つの記事の引用である。これらにいかなる徴候があるか。我々はこの機関紙の政治感覚、ひいてはこの集団の大衆運動への考え方に、いかなる浅薄さを感じずにいられないか。


午後六時、真夏のような灼熱の陽光をうけ白ヘルのデモ隊が松山公園をうってでた。「辺野古埋め立て阻止! 憲法大改悪阻止! 日米核安保粉砕! イラン攻撃阻止! 安倍ネオ・ファシズム政権打倒!」と大書した横断幕を先頭にデモ隊は那覇市中心部、国際通りにむけて力強く進撃する。左手が自民党県連だ。街宣車から女子学生が(略)と呼びかける。たたかう労学は(略)と怒りのシュプレヒコールをたたきつけた。(中略)こうして労働者・人民の圧倒的な共感をまきおこしながら、たたかう労学は、警察権力による弾圧を一切ゆるさず、牧志公園までのデモを貫徹したのである。(七月一日、二五七五号二面)

午後六時すぎ、デモ隊が松山公園から那覇市街地にくりだす。「辺野古新基地建設阻止!憲法大改悪阻止! 日米核安保粉砕!」と大書した横断幕を先頭にデモ隊は国際通りにむけて進撃する。左手が自民党県連だ。街宣車の女子学生が呼びかける。(略)たたかう労学は、嵐のようなシュプレヒコールを叩きつける。(中略)労働者・人民の圧倒的共感をまきおこしながら、たたかう労学は国際通りを進撃し希望ヶ丘公園までのデモを貫徹したのである。(一一月一一日、二五九四号六面) 


(この項続く)
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