野間宏エッセイ 現代を探求する新人たち――失われた片腕、片眼を見出すこと 「週刊読書人」1958(昭和33)年6月9日号|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年3月8日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第228号)

野間宏エッセイ
現代を探求する新人たち――失われた片腕、片眼を見出すこと
「週刊読書人」1958(昭和33)年6月9日号

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戦争によってとじこめられ、閉鎖された内的な世界の追求をはたす文学と外的な現在の資本主義社会の機構を調査をもって、さぐっていく記録的な文学が、若い作家のなかに生れている。大江健三郎と開高健の二人をこの二つの文学の代表としてあげるのはすでに常識だが、すでに「監禁された状態」を書く人々は多く、また社会のメカニックを書く人々も多い。

私はいま雑誌の文芸時評を引き受けていてかなりの範囲にわたって、若い作家の作品を読んできているが、例えば大江健三郎は「芽むしり仔撃ち」(「群像」6月号)を書いて、これまで自分のつみかさねてきたその閉鎖された内的世界の追求をさらに拡大された装置のなかでおこなっているのを見た。しかし、今月資本主義社会のメカニックを追求した作品は多く、梶山秀之の「地面師」(「新潮」)、黒井千次の「メカニズムNo.1」(「文學界」)、竹田敏行の「どぶ鼠」(「新日本文学」)、川俣晃自の「団体交渉」(「中央公論」)、坂上弘の「動物」(「新日本文学」)などのなかに私はその方向を見た。しかもこの二つの文学はまるで戦争で片腕をもぎとられ片眼をえぐりとられたかのように、互に他のもののなかにある失われた腕をさがしながら、どこに自分のもぎとられた腕、えぐりとられた眼があるのかを、みいだすことが出来ないのだ。

大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」はこれまで彼の追求してきた自分の内的世界の要素をあつめ、その要素を実験装置におく装置の完備を示す作品である。彼はその文学を精密に前にすすめて、この内的世界の追求がいまや、現代社会の現実と呼応し合うことのできる装置をかく得したことを明かにしている。すると彼のすぐ眼の前にあらわれてきているのは、第二群の人たちが長いコンパスをもって駈けながらとらえようとしている資本主義の現実とその機構なのである。事実、大江健三郎は「見るまえに跳べ」(「文學界」)のなかでこのことを示しているが、私は見るまえに跳ぶのではなく、いかにして、つみかさねてきた内的世界の追求と資本主義社会の現実の追求とが結び合うかを、その精密な方法を持ちつづけることによって出して行かなければならないと思うのだ。

開高健の停滞の内容がどのようなものであるかはいま問わないとして、「地面師」「メカニズムNo.1」「動物」はいずれも現代資本主義社会の眼に見えないメカニックのなかで、眼を失い、足をひっとらえられる人間をとらえることによって、眼に見えないメカニズムとそのなかにおかれた人間の人間関係を眼に見えるものにしようとしている。「地面師」は製薬会社の経営奪取をめざす銀行資本の攻撃の前にあらわれる地面師を描いて、むしろ銀行資本の動きをとらえようとするが、社会のメカニズムを固着したものとしてとらえる方法であり、これに対して「メカニズムNo.1」はメカニズムそのものを動いているものとしてとらえる方法をつくり出そうとしているが、いずれもがメカニズムに対する展望に限界があり、全く浅く、次々と金融資本、産業資本、商品販売へとつながっているメカニズムの全体的なつながりをさぐり出すためにはなお、今後つみかさねが必要だ。その点からいうならば「動物」はメカニズムの追求という点ではなお特別の領域を見出してはいないが、現代社会に存在しているものと商品の類別の方法によって、逆にメカニズムのなかにはいることが出来ることを示している。「動物」は事業に一応成功した父親が家を建て犬を飼うという問題のなかにはいり、この犬のような人間を飾る装飾品の現代社会に於ける位置をさぐり出そうとするのである。しかも作品は最後にこの装飾品によってくいやぶられる家庭を描いて、それをはたしている。いずれも成功しているとはいいがたい作品であるが、これらの作品はその作者がまだ自分自身の内的世界の検討を十分へていないことを明かにしている。それはその言葉と作品の構成に見逃すことの出来ない大きな傷のあることで示されている。

私は大江健三郎が簡単に見るまえに跳べなどという言葉を提出するのに反対であるが、またこれらの作家たちがメカニズムのなかにさらに深くはいって行くのをやめて簡単に内的世界に引き返すのにも反対なのだ。この二つの文学はやがてはその自分の領域にじっととどまっていることなどできないのだ。このいずれもは、高まってきている国際的な危機、変動する世界の状況のなかで、なおさらにメカニズムが動顚するものであり、検討しつくした内的世界が動顚するものであることを知るのである。この二つを統一するものはその動顚する自己と動顚する外界を動顚するもののなかで一つのものにしうるものである。それがなんであるかを問うてすでに日本文学は動いているが、資本主義社会のメカニズムを通じて動きつづける現実、そのなかに存在する日本人、この二つをきりはなすことなくとらえる文学は、動顚する社会、動顚する自己を切りひらいてそのいずれをも変革するところに生れることもちろんのことである。(のま・ひろし=作家)
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