「この世界の片隅に」 こうの史代 片渕須直 対談集 さらにいくつもの映画のこと 書評|こうの 史代(文藝春秋 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2020年3月14日 / 新聞掲載日:2020年3月13日(第3331号)

「この世界の片隅に」 こうの史代 片渕須直 対談集 さらにいくつもの映画のこと 書評
「不甲斐ない視点」で描く戦争
ーひとつでありながら多声的な声ー

「この世界の片隅に」 こうの史代 片渕須直 対談集 さらにいくつもの映画のこと
著 者:こうの 史代、片渕 須直
出版社:文藝春秋
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 最近、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の漫画版(小梅けいと画・速水螺旋人監修、KADOKAWA)の第一巻が刊行された際に興味深かったのは、池上彰のコメント――「声高に戦争反対を訴えるのではなく、戦時下では何が起きるのかを淡々と綴っている。だから心を打ちます」――を紹介した原作文庫版の版元・岩波書店のツイートが、大規模な反発によって迎えられたことだ。反戦のような立派な大義は声高にこそ唱えられるべき、というわけだが、アレクシエーヴィチの作品との関係ではいささか的外れなものに感じられる。

この作品は、独ソ戦に従軍した旧ソ連の女性たちが当時の大義――反戦の、であるどころか、不可侵条約の曖昧な平和ののちに掲げられた「大祖国戦争」の大義――を後年になっても多少なりとも受け入れつつ、かつて戦場で経験された苦境をそれぞれに証言するもので、実際のところ、声高で一面的な反戦のメッセージを提出したものとして読むのは難しいからだ。二〇一五年のノーベル文学賞受賞時、彼女の作品が「多声的」であることが理由として挙げられたけれど、『セカンドハンドの時代』の書評(『朝日新聞』)で柄谷行人が指摘するように、この多声性は単に多くの人びとの声を集めているから、というばかりではなく、「そもそも一人ひとりの発話が多声的」だからという理由にもよっている。

『戦争は……』に戻るなら、例えば身障者となって復員した元軍曹の女性は、「神様が人間を作ったのは人間が銃を撃つためじゃない、愛するためよ」と言いながらも同時に、「歴史を何十回でも書き直すがいい、スターリンありの歴史でも、スターリン抜きでも。でも私たちが勝利したってことに変わりはないのよ」と自分の確信を語る。この作品の基調をなすのはこうした両義性だ(だから「大祖国戦争」の神話の永続を許す書物として批判されることもある)。

アレクシエーヴィチの本の漫画化は、こうの史代原作・片渕須直監督の映画『この世界の片隅に』(二〇一六年)のインパクトを受けて企画されたのだという(バズフィード、二〇二〇年一月二七日)。前線と銃後の違いにとどまらないいくつもの相違点にもかかわらず、たしかに両作品は、戦争という現象のただなかに置かれた者の声を還元不能の多元性において伝えている点で、共通の何かを持っていると言えるかもしれない。

四十分近い映像を追加した新たな映画公開に合わせ刊行された対談集――「さらにいくつもの映画のこと」と副題された――のなかで、こうの史代は「この物語は戦争が主役だ」と述べ、主人公すずについては、あえて「ちょっととぼけ気味」な人物として設定したことを証言している(第2章)。戦争は物語の背景であるどころか、物語を動かす主要なアクターであって、すずを始めとする登場人物はみな、この戦争と呼ばれる一連の出来事に何ら能動的に関わることもできずに、ただ受け身の反応を繰り返すことで日々を生きていく。

だからといって彼らはまったく、皇国イデオロギーにすっかり組み込まれた画一的な臣民としては描かれていない。とりわけすずは――片渕須直が強調するように、「看板みたいなキャラクターではなくって、多面的な人格を持った「人物」」として――、それぞれの局面で、「別個に思い浮かべると、ともすれば別の人に見えたりも」するほどの多様な反応を示す(第2章)。アレクシエーヴィチの作品においてそうであるのと同様、彼女の声はひとつでありながらも多声的だ。映画版ではこの多声性に、のんの驚くべき演技が深い実質と一貫性を与えている。

そしてそれらいくつもの声のなかで、劇中最も声高なものとして響くのは反戦の願いであるどころか、玉音放送後に戦争の継続を求めて上げられる叫びにほかならない。原爆投下後の広島に救援に駆けつける――この善意の行いの帰結を知ることもなく――呉の人びとの「強さ」と「優しさ」を自分も身につけたいと願った直後に発せられるこの叫びは、その生々しく荒々しい真摯さと現実的判断としての破綻ぶりによって、わたしたちの心を言いようもない哀切さの感情で満たす。

この無謀な好戦感情のほとばしりは、彼女の国からの「正義」(ただしこの言葉をすずが口にするのは原作のみ)の飛び去りを確認することでただちに潰え去ることになるのだけれど、劣らず哀切なこのシーンののち、すずはだからといって「うちらのこれまで」(映画版のみの言葉)を決然と捨て去り、米軍統治下の新秩序のなかに悔い改めた面持ちで入っていくのではない。すずはひとりの反省した軍国少女としては描かれていない。例えば一歳違いの詩人・茨木のり子のように旧体制のイデオロギーを深く内面化していたのではないのだから、新体制の到来を新生の契機として受け止める必要もないというわけだ。

深刻な反省を迂回して生きられるこの連続性の感覚は、もちろん意図して表現されたものであって、片渕はそれをあるところで、「不甲斐ない視点で戦争を描」くこととして定式化している。戦争の日々を、また終戦後の日々を、それら自分にはどうしようもない大きな潮流のなかを、「ずっと流れてゆくこと」。「今まで世の中で描かれてきた物語が 〝不甲斐がありすぎちゃってる〟 ことへのアンチテーゼ」として、この流されゆくこととしての人生に目を向けつつ戦争体験を描き出すことこそが、こうの史代と彼自身の共通の目論見なのだという(『PLANETS』第十号)。

今回の対談集に収められた六つの対話は、漫画版と映画版の違いにはさほど踏み込んでおらず、言及がなされる場合にも両者の表現形式の違いに由来するものがほとんどで、内容理解に関わる差異には議論が及ばない。例えば、両者の最大の違いと言うべきすずと水原哲の関係性の問題――原作では、彼が周作にとってのリンに対応するすずにとっての「選ばんかった道」であることが示唆されるのに(密かに縫われる千本針、納屋のシーンで眼差されるリンドウの茶碗、等々)、映画版ではすずの側からの思いはないものとされる――は、第5章でこうのが二人の関係に言及するにもかかわらず、追究されずに終わる。

だからむしろ本書は、すでに取り上げたような共通性の確認と、それを基盤としてなされるいくつもの興味深い指摘のためにこそ読まれるべきものだろう。ひとつだけ取り上げるなら、今回の新しい映画で最も登場シーンを増やしたリンが「妖艶な女性」でも「勝ち気な人」でもなく、むしろすずに近いところを持っていることを語り合う二人の発言は(第6章)、二〇一六年の映画で岩井七世がこの遊女に与えた明るく若やかな声をこのうえなく適切なものと感じ、三年後の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』での出番の増加を喜んだすべてのひとを深く納得させるに違いない。
この記事の中でご紹介した本
「この世界の片隅に」 こうの史代 片渕須直 対談集 さらにいくつもの映画のこと/文藝春秋
「この世界の片隅に」 こうの史代 片渕須直 対談集 さらにいくつもの映画のこと
著 者:こうの 史代、片渕 須直
出版社:文藝春秋
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