橋爪大三郎氏/内田樹氏 インタビュー 69年5月、駒場900番教室の記憶 映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』公開を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年3月13日 / 新聞掲載日:2020年3月13日(第3331号)

橋爪大三郎氏/内田樹氏 インタビュー
69年5月、駒場900番教室の記憶
映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』公開を機に

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第6回
内田 樹氏 インタビュー  「革命戦士」のリクルートに来た三島

内田 樹氏
――内田さんは、一九七〇年に東京大学へ入学されています。安田講堂事件や、討論会以後の入学ですが、学内の雰囲気はどのような感じだったのでしょうか。
内田 
 六九年の東大の入試は、安田講堂事件などの影響で中止になりました。だから僕らが入学したとき、駒場には二年生がほとんどいなかった。残っているのは、あえて留年した党派の幹部と、各クラブの主将、副将です。閑散とした、不思議な空間でしたね。もちろん学内の一部では、学生運動はしていましたけれども。でも、学生数は激減してるし、入学したばかりの一年生は右も左もわからない。ですから運動のスケールはひどく小さいものでした。前年の駒場と比べると、一気に非政治的な空間になっていたと思います。

――三島と東大全共闘との討論会は、どのように内田さんたちの世代に伝わったのでしょうか。
内田 
 討論会があった頃、僕は予備校に通っていたので、毎日同じ年代の人たちと顔を合わせていました。彼らとの間でも三島が何を喋ったのか、ずいぶん話題になったことを記憶しています。まさか「あの三島」が東大に乗り込んで、全共闘と討論するなんて思ってもいませんでしたからね。しかも、伝え聞くところによると、「君たちがひと言、天皇と言えば一緒に安田講堂にこもった」と言ったらしい。とても信じられなくて、この討論会をまとめた本が出たときは、むさぼるように読みました。

ですから、今回の映画を観て初めて討論会の全容を知ったわけではないんです。直後から、伝聞で状況は伝え聞いていましたし、全討論を収録した『討論 三島由紀夫VS東大全共闘』も読んだし、日本では遺族の反対で公開できなかったポール・シュレイダー監督の『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』という映画も観ていました。シュレイダーの映画の中では、この討論会が一つの見せ場になっています。駒場の九〇〇番教室とそっくりの場所で、緒方拳が黒いポロシャツの胸をはだけて、煙草をひっきりなしに吸う三島を演じていましたが、これがほんとうに三島にそっくりでした。それ以上に驚いたのは全共闘の学生たちのエキストラが教室を埋め尽くしているんですけれど、どこで探してきたのか、この学生役のエキストラたち本当に「あの時代の学生の顔」をしているんです。それまでも断片的に数分程度の動画や写真で、討論会の様子は窺い知っていましたが、実際の雰囲気をリアルに感じたのはこの映画からでした。だから、映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』を初めて観た時は不思議な既視感がありました。

――三島は討論会で、千人の学生を、本気で説得しているように見えます。
ⒸSHINCHOSHA
内田 
 討論会や三島の自決には、前段があります。三島はこの前後から、楯の会の青年たちを引き連れて、陸上自衛隊の体験入隊を繰り返していて、自衛隊と非常に密接な関係があった。当時、何人かの陸自の将官たちが「もしあなたが立つなら、我々も決起します」と三島に伝えていたそうです。もちろん、将官たちにしても、まさか三島が本気でクーデタを起こすなどとは思っていなかった。おそらくリップサービスのつもりで言ったのでしょうが、三島はそれを信じた。市ヶ谷駐屯地で自衛隊員たちに「諸君!」と語りかけたとき、三島にはいくぶんかの勝算はあったんだと思います。

討論会は自決の一年半前ですが、三島はこの時点では、自分が立てば自衛隊の一部は共に決起するという楽観的な見通しを持っていたんだと思います。仮にそれで一気に政治革命が実現することはなくても、二・二六事件くらいの規模のクーデタは起こせるだろう、と。それが弾圧されても、自分が死んでも、歴史に名前を残すことはできる。そういう見通しがあったのではないかと思います。ですから、三島が東大に乗り込んで行ったのは、あれは「革命戦士のリクルート」だったと思います。東大全共闘の中には、政治権力に抗して、一歩も引かずに闘えそうな奴らがいると思った。あの場の千人の中の、十人でも五人でも、革命闘争に命をかけると言えば、自分と共に立ち上がる者がいるかもしれない。

ですから、三島はあの討論会で学生たちを「論破」することを自制した。それよりも、自分がどれだけ信頼するに足る人物かを示そうとした。三島はこのとき、とても機嫌がよい。多少の緊張感はありましたが、千人の「敵」の中に乗り込んで行ったという悲壮感はない。逆に、全共闘の学生の方が「三島が来るぞ」と、緊張しています(笑)。

東大全共闘は三島をどうやって論破し、彼の面目を潰そうかと考えていた。でも三島は彼らに自分がどれくらい鷹揚で、包容力のある政治指導者であるかを示すために行った。自分がどれくらい魅力的な人間であるかを示すために行った。ですから、支離滅裂なことを言ったり、自分でも何を言ってるのか分からないような学生に対してさえ、その言葉中から意味のあることを丁寧に取り出して、「君が聞きたいのが、こういうことであれば」と答えています。三島が懇切丁寧に説明したのは知的誠実さゆえだけではありません。共にクーデタに立つに値する人物であることをアピールするためです。

だから、三島〝VS〟も、〝討論〟も言葉としては間違いだったと思います。あれは東大全共闘がつけたタイトルで、三島の方は革命戦士の徴募に来ていたわけで、別に討論で東大全共闘をやり込めに来たわけではないんです。これから政治的革命を起こそうと計画している人間が、機嫌よく登場したのは、自分の味方を増やすためです。敵を倒すために来たんじゃない。そう思って観ると、この映画での三島の言葉の一つ一つの意味がよく分ると思います。

――もし内田さんがあの討論の場にいたら、どう思ったでしょうか。
内田 
 揺れたでしょうね。この人についていこうかしらと思ったかもしれません。全共闘と三島では、覚悟が違いますから。全共闘運動は、学園内の闘争であって、過激派セクトの陣地取りだった。結果的に機動隊に殺されたり、敵対党派に殺された人間はいましたけれど、最初から死ぬ覚悟で活動していた人間を僕は見たことがない。でも、三島の場合は最初から死ぬ覚悟だった。死ぬ覚悟のある人間とない人間が対峙すれば、千対一でも勝負になりません。

――映画の大きな柱は「言葉が有効だった時代」だと思います。内田さんは、現代の言葉について、どうお考えですか。
内田 
 率直に言って、言葉の使い方が下手になったなと思いますね。言葉自体に罪はありません。言葉を使う人間たちが単純さを求めるようになった結果、国語力が落ちた。テレビが一つの原因でしょう。わずかな時間で難問に対する答えをクリアカットに言い切るタイプの人が重用された。一刀両断、寸鉄人を刺す的な言葉遣いをする人がコメンテーターとして重用されるようになった。それが言葉遣いの理想だと人々が思うようになった。それで、言葉が枯渇した。そういうことだと思います。

わかりやすくて、切れ味のいい言葉は、言葉の奥行きや広がり、多義性を奪います。言葉の豊かさとは複雑さのことなんです。今の人たちは論理や構造が複雑な言い回しをもう使えない。小学生の日記のような短文を連ねるような文を書いてきます。自分の思いを伝えたいのなら、複雑な文章を操り、ニュアンスのある言葉や語彙を獲得する必要がある。でも、そういう努力をしなくなった。定型句をただ高速で繰り返すだけです。駅で学生が喋っているのを聴いても、言葉が超高速でやり取りされているので意味が分からない。でも、あれだけ速く話せるということはストックフレーズの乱れ打ちをしているということです。言い淀んだり、つかえたり、同じところをぐるぐる回ったり、前言撤回したりということがありません。言葉はそういう手間をかけて熟成するわけですから、言葉がやせ細るはずです。

――最後に、若い世代にこの映画を、どう受け止めて欲しいですか。
内田 
 とにかく三島由紀夫を見て欲しい。これからクーデタを起こして、そこで死ぬつもりの人間が、自分と一緒に死ぬ人間を募集しに来ているのです。現代の若い人は、そんな人間の顔を見たことがないと思います。「俺と一緒に死んでくれるか」と、道行きの相手を探している人がどんな表情で、どんな声で語るかを見て欲しい。五〇年も前のことですから、共感するのは難しいと思います。でも、こんな人がいたことは知って欲しい。       (おわり)
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