背高泡立草 書評|古川 真人(集英社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2020年3月21日 / 新聞掲載日:2020年3月20日(第3332号)

背高泡立草 書評
「繁茂」する声、共生の語り
「言語の運動神経のなさ」を逆手にとった鈍重な歩み

背高泡立草
著 者:古川 真人
出版社:集英社
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背高泡立草(古川 真人)集英社
背高泡立草
古川 真人
集英社
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 福岡に暮らす奈美と母の美穂、その姉の加代子と娘の知香の四人が、長崎平戸の小さな島にある美穂の実家(吉川家)の納屋の草刈りに出かけるところから話は始まる。奈美は、休日に草刈りに駆り出される不満以上に、その意味が理解できない。そもそも美穂は吉川家の養子として育った。実母は養父・智郎の妹の内山敬子で、加代子と兄の哲雄は内山家で育っている。智郎も妻の佐恵子も他界した現在、空き家となった吉川の家屋(〈古か家〉と〈新しい方の家〉)及び納屋を管理するのは敬子である。この複雑な血縁関係の設定が、吉川家が既に実体を持たず、美穂のいう「みっともない」や「〔納屋が〕かわいそう」といった理由で草を刈る家族行事を、より空虚で形骸的なものとして際立たせる。一見、土地に根ざした「家」の複数性、時間の重層性、そして「サーガ」などの濃度を求める文学的伝統に媚びた古い手法に見えつつも、その実、本作が一貫して探っているのは、関係の弱さに関係を見出す語りの可能性なのである。草に託されたのは、植木鉢に植えておいた四季海棠が近辺のアスファルトに点点と花を咲かせているのをみて美穂が喜びを覚える終盤の場面が喚起するように、飛び飛びに関係を繋げていく「繁茂」する声のイメージであり、奈美たち若い世代をも薄く巻き込んでいく力である。

軸となる草刈りの話は、語りの中で何気なく触れられた出来事を通路として、四つのばらばらのエピソードに脱線する。島の外からやってきた連中の「雄飛」の「声」に駆られ満州で一旗揚げるために〈古か家〉を手放す男の話、終戦と同時に乗り込んだ帰国の密航船が難破し、漁船に助けられて〈古か家〉で芋粥を与えられる朝鮮人の話、江戸時代、島の無口な刃刺(鯨捕り)の青年が蝦夷へ派遣され、帰郷の後「語る」ことの困難に向き合う話、そして父親にカヌーでの放浪を強要され、島にそれを置き捨て、鹿児島(から沖縄?)へと棄郷の旅を続けようとする福岡の少年の話。すべて帰着しない物語であり、空間的には、西端から北端、そして南端へと日本の周縁をぐるりと巡り、時間的には、戦時中、近世、そして(カヌーという原始的航行が想起させる)太古へと、あるかなきかの繋がりを通して、語りは遠心的に散種されていくのだ。その全体を捉えうるのは個の人間の想像力を超えたいわば無規律な「草」の視点である。主人公らしき奈美の目に映る安易な「家族」の物語に収束されないのも、祖母・母・娘をフラットに敬子、美穂、奈美と呼ぶ語りの中心に、そんな離散と疎遠の原理が働いているからだ。

芥川賞選考委員が揃って口にした物足りなさは、だから、核心を正しく言い当てていると同時に不当にも思える。本作において草刈りとは、人間(家)と自然(草)の対決ではなく、気ままな記憶(=声)の繁茂に乗って、より大きな環境的ネットワークを形にしていくようなエコクリティカルな共生の語りのことである。一種のポスト・ヒューマン文学の挑戦なのだ。それにしても、心理的浄化を隠喩する「納屋を焼く」(フォークナー/村上春樹)ではなく、「納屋を保つ」という圧倒的な地味さ。だが、そのような空しく意味なさげなものにまつわりつく形でしかこの語りは真価を発揮しない。今後、島を離れる創作のリスクがそこにある。作者が受賞会見で述べた「言語の運動神経のなさ」を逆手にとった鈍重な歩みを、どこまで続けることができるだろうか。
この記事の中でご紹介した本
背高泡立草/集英社
背高泡立草
著 者:古川 真人
出版社:集英社
「背高泡立草」は以下からご購入できます
「背高泡立草」出版社のホームページはこちら
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