堀田善衞 評論 変革のイメージを模索する日本の知識人たち 『週刊読書人』1959(昭和34)年3月23日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

  1. 読書人トップ
  2. 特集
  3. 読書人アーカイブス
  4. 学問・人文
  5. 堀田善衞 評論 変革のイメージを模索する日本の知識人たち 『週刊読書人』1959(昭和34)年3月23日号 1面掲載
読書人アーカイブス
更新日:2020年3月21日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第267号)

堀田善衞 評論
変革のイメージを模索する日本の知識人たち
『週刊読書人』1959(昭和34)年3月23日号 1面掲載

このエントリーをはてなブックマークに追加
1959(昭和34)年
3月23日号1面より
作家・堀田善衞による1959年の評論。当時の知識階級における議論の一例に吉本隆明・花田清輝の論争を挙げ、この論争の課題を提示しつつ、堀田自身の思想の立ち位置を検証していく。(2020年編集部)
第1回
花田・吉本論争の解らなさ

知識階級としての責任、あるいは覚悟ということが問われる場合、二つのタイプ、あるいは答えがあるように思われる。その一つは、戦争との関連であり、二度と当時の状況をくりかえしたくないというところから発するものであり、その二は、現在すでに知識階級として立派に成立している、より若い、戦争との関連というよりは、むしろ戦後の状況から学んで来た人人の、前提としては、くりかえしたくないという否定の面をもつよりも、むしろどういう事、あるいは理想像、プログラムを将来にもつべきか、もつことができるか、と模索している部分――この二つがあると思われる。

この二つの部分は、まだ充分に相互の話し合い、討論を経ていないようである。たとえば後者に属すると思われる吉本隆明と、タンゲイすべからざる花田清輝との論争が、その論争の出所、筋道に詳しくない者にとっては、どうにもチンプンカンプンであるのも、恐らくはそのせいであろう。私自身はどうかと言えば、私はこの前者と後者のどちらに属するというふうではなくて、ヌエのような工合であって、吉本隆明の指摘にまつまでもなく、変革のための明確のイメージ乃至プログラムというものを見失ってしまってから、すでに大分時間がたっている。

しかも、私は、それを見失ってしまったということを、悔いているという工合ではまったくない。悲観的であるというふうでもまったくない。それがそうでないとするならば、それではどうあるのかといえば、私はそういう私自身について我慢をしつづけているという状態にあるのだと思う。模索をつづけているなどということは、自分から言えたことではないので、我慢をして出口についての思案をくりかえしているということになろう。その出口の一つは、近頃たとえば加藤周一が度々指摘するように、日本と中国との問題であることは、これまたさして大声を出さなくてもよいであろう。私自身は、日本と中国との問題の解決は、中立などということよりも以前に、国の独立の問題とかかわるので、自分に出来ることは全部やりたいと思っている。そのために、いろいろな意味で、多少の無理をしなければならぬということも覚悟している
2 3 4 5
このエントリーをはてなブックマークに追加
堀田 善衞 氏の関連記事
読書人アーカイブスのその他の記事
読書人アーカイブスをもっと見る >
学問・人文関連記事
学問・人文の関連記事をもっと見る >