中平卓馬をめぐる 50年目の日記(48)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2020年3月23日 / 新聞掲載日:2020年3月20日(第3332号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(48)

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大学は一触即発の状態になっていて、構内の隅にある編集小屋もいつ使えなくなるか分からない。だから私たちはフォト・クリティカ2号を送る作業を急いだ。そこへ中平さんから「緊急の用だ」と言う電話があった。作業を抜け出して私は新宿の喫茶店に向かった。
「秘密厳守で頼みたいことがある」と少し険しい表情で切り出した。「詳しいことは話せないし聞かないでほしいが、極秘裏にプリントの出来るところはないかな、パスポート用の写真が必要なんだ」と言う。急にそう言われてもプリントの規模にもよるし……と私が頭を巡らせていると、「とにかく急いでいるんだ、カメラは持っているよね。今から麻布の国際文化会館に一緒に行ってほしい。そして撮った写真をすぐにでもほしいんだ。ただ暗室はふだん使っていないところがいいなあ」と言った。

一緒に麻布へ向かった。そこにはなじみの顔の新聞記者を含む人たちがいて、部屋の隅には確か四人くらいの外国人男性がいた。

促されて私は早速部屋の一番明るいところに椅子を用意し、四人の証明用写真を撮影した。終わるとすぐに「じゃあ頼んだよ」と誰かに言われ、追い立てられるように部屋を出るとそこには中平さんが立っていて、「今日中にほしいんだ」と気ぜわしく言った。はい、としか言いようがない。どこで作業をするかと聞くので私は咄嗟にMのところにすると答えた。「分かった、夜遅くなるがM君の家に電話するからあなたかM君が出られるようにしておいて」と言われ、私は六本木の駅に向かったのだ。途中、公衆電話ボックスに入ってMの家に電話した。運良くMが受話器をとった。「事情はあとから話すから現像とプリントの用意をしておいて」とだけ言って返事も聞かずに電話を切った。

後輩のM君の家は外科医院だった。少し前までは入院にも応じていたがその時はそれをやめていたので二階の旧病室、共同の流し、洗面所などが空いて、Mはそこを自分の作業場に使っていた。一階の診察、処置室の脇にはレントゲン室もある。

着くと手短に経緯をMに話した。「全部用意してあります」と彼は言った。私はすぐにレントゲン室の隣の暗室に入ってフィルムの現像をし、乾くのを待ってすぐプリントした。

私は出来たてのプリントを袋に詰めて上着の内ポケットに入れた。Mはフィルムを焼き、プリントの試し焼きや失敗の紙を小さく刻んでくれた。間もなく電話が鳴り、新宿駅の構内でそれを渡すことになった。

数日後中平さんに会うと、「あの脱走兵たち、無事日本を離れたらしいよ。根室港からカニ漁の船に乗ってソ連に渡ったようだ。明日あたりにはモスクワに着いて、そこからストックホルムに行くらしい」と言った。私は日本の漁船が納沙布岬の先の海上でソ連の漁船に彼らを預ける光景を想像した。

だがそれにしても中平さんの口ぶりはぶっきらぼうだった。私もだいたい想像はついていたが、彼はベ平連に協力したと思いたくなかったのだ。私も同じ考えだったからそれが分かった。広い裾野をもつベ平連の組織論は私たちには正しすぎた。

1967年にイントレピッド航空母艦が横須賀に寄港した。そこから脱走した米兵を支援した「ジャテック」(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)はベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のネットワークである。堀田百合子さんの『ただの文士―父・堀田善衞のこと』(岩波書店)にも堀田氏が逗子の自宅で脱走米兵を匿う協力をした顛末が書かれている。私の経験はその翌年のことである。脱走支援は数次に及び逃亡ルートもいくつかあったようだ。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)    (次号へつづく)
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