芳賀徹追悼の辞 君去りて淋しきこの日如月 平川 祐弘|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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追悼
更新日:2020年3月21日 / 新聞掲載日:2020年3月20日(第3332号)

芳賀徹追悼の辞
君去りて淋しきこの日如月
平川 祐弘

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夏風や汽笛那須野に響きけり


これが山形から東京へ転校してきた芳賀徹の俳句でした。昭和十六年、その小学校四年以来のつきあいである君と別れるに際し、深い恩恵を受けた者として謹みて追悼の辞を述べさせていただきます。

令和二年二月二十日、私どもの敬愛する芳賀徹君は子や孫に見守られ、草葉の蔭に去られました。まことに哀悼の情に堪えません。知友一同、ここに恭しく敬弔の誠を捧げ、君の高徳を偲ぶものであります。君の生涯八十八年、見事でありました。学問に豊かに芸術に敏く、君は第一級の人文学者でありました。人柄は優しく、優しいの「優」の字は人偏に憂いと書く。人の憂いに感じる心が優しさだと学生のころから申しました。芳賀徹が詩歌の森を散策しながら語ると心ある読者はその文章に納得し感じ入りました。それは芳賀が作者の気持に共感し上手に解き明かすからです。東京大学の教室でもよく下調べし一旦自己嚢中のものとした上での語りは講演に血が通い、座談は名手の即興演奏の如く、内外の学生も、学会の聴衆も、また美智子陛下も、芳賀教授の話に耳を傾けられました。芳賀さんは召人として詠まれました。

子も孫もきそひのぼりし泰山木暮れゆく空に静もりて咲く



芳賀青年の大きな顔を母親たちは「大仏様」といいました。広く明るい薔薇色の肌にはいつも春風が駘蕩していました。大人物たる所以は、留学するやパリのまだ無名の画家、今井俊満やサム・フランシスと親しくなり、デュテュイからは岳父マチスのデッサンをもらい、アンフォルメルの評論家タピエとはフランス語の共著『日本における伝統と前衛』をイタリアの書店から出版したことでもわかります。その豪華本がフィレンツェの目抜き通りの店頭に飾られたのを見たときは羨ましく思いました。そしてそのような若き日の絵描きとの交流が、芳賀徹の後半生の『絵画の領分』『藝術の国日本』等の著書に豊かに美しく結実し、読者に絵を見る楽しみ、詩を読む喜びを教え、若き才能の発掘育成に通じたのだと思います。
一九六六年、島田謹二先生は軍人廣瀬武夫を学問の対象とする大胆な方向転換で明治研究に新天地を開きましたが、芳賀徹はその年、島田教授還暦記念論文集に《明治初期一知識人の西洋体験――久米邦武の『米欧回覧実記』》を書くことで、岩倉使節団を見る眼を一変させ、学問の海に堂々と船出しました。ジャンセン教授に認められ、三十代末の芳賀一家はプリンストンに招かれ、以後は日本側からも英語で発信する二本足の学者として学問の王道を進みました。徳川の知識人が日本の遅れを自覚しつつも米欧で臆するところなく振舞ったように、芳賀は外国でもアット・ホームな日本人として、よく人と交わりました。福澤諭吉以下の西洋体験が処女作『大君の使節』で生き生きと再現されたのは、著者芳賀徹の西洋体験が実り豊かだったからです。

芳賀君はその人柄がかもしだす好ましい雰囲気で、内外の男女から愛されましたが、日英仏語で司会も挨拶も質問も見事でした。先年『手紙を通して読む竹山道雄の世界』を編集して、竹山と一番深く対話した生徒は芳賀だなと思いました。芳賀は政治色は強く出さないが、時流を恐れるな、時流から隠遁するな、時流を見つめよ、時流をこえて人間と世界を思え、そのために歴史を学べ、古典に触れよ、という精神の自由を守った人と思います。そんな芳賀だから自己の感性に忠実に徳川の文化を生き生きとよみがえらせました。俳人蕪村、蘭学者玄白、画家由一などに温かい光をあて、きめ細かく論じました。自国を卑下せず、強がりもいわず、仏米からも韓国中国からも古今の日本からも良いものをとりいれ己れの宝としました。そんな芳賀教室は内外の学生でいっぱい、本席にもソウルから李應寿さまがお見えですが、師友に恵まれ、対話はいつも活発でした。父君芳賀幸四郎教授の同僚小西甚一先生は幸四郎教授の最高傑作は息子の徹と申しました。その徹はさらによき奥様知子さまに恵まれ、良き子も孫も恵まれました。

しかし芳賀君は遅筆で桃源郷の広告は半世紀前に出たが、本は出ない。「桃源郷の本はいつ出ますか」と台湾でも質問が出た。すると桃源郷について書きおえると、それが最後の本になるような予感がするのでと妙な弁解をしたが、昨夏ついに『桃源の水脈』を仕上げました。その結びに父幸四郎が八十八歳で三冊大著を出し、そのあとあまり周囲に迷惑をかけず大往生したと書いてある。さては徹本人もそのつもりだなと思い、私は、日本戦略研究フォーラムを煩わし「平川・芳賀で最後の揃い踏みをするから」と昨秋二人で講演した。芳賀君は吉田茂夫人雪子の英語文章を読み解きました。この美しい語りは筑摩から出る『外交官の文章』(五月下旬刊行予定)の最終章となるはずです。

今年の賀状は「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」と三橋鷹女の激しいスイングの句でしたが、添え書きが弱気で、気になり電話したら「外出は大儀だ、うまい白ワインでチーズが食べたい」と美食家でヘドニスティックな彼がいうから「ではそれを持って行く」と日もきめた。そうしたら倒れた。ワインとチーズをそれで病院に持参したが、皆さんにとめられ、残念しました。芳賀君はその時は能弁で往年の女子学生で頭のいいのがクマラスワミ報告に賛同する、と話し、フェミニスト連のその程度の判断力不足を冷やかさないのが芳賀の優しさとも人の良さとも思いました。見舞いに行くたびに弱り、大きな顔が前に垂れ、脇から支えても十歩も歩けなかった。葬儀委員長は平川に頼む、と言いました。「依子さんを大事にしろよ」と私の家内にふれた別れしなの声には、私どもの仲人としてというより、今は亡き知子さんを思うの情が言わせた言葉と感じました。最後の病院へ移ったとき芳賀は「ここは涅槃か。死亡通知は出したか」と息子の満に言ったそうですが、ここは八年前に知子さんが最後にいた病院と私は思い、二人はこれでまた一緒になると思いました。祭壇の遺影の芳賀君はカ・ドーロの前で元気で大きな顔で笑っているが、最後に見舞った日は若き芳賀君がヴェネチアからフィアンセの知子さんへあてた手紙を読んできかせようと思い持参したが、もはや聴く力はなかった。それでも最後に芳賀が手を伸ばして握手し、今生の別れとなりました。

手紙に限らず、丁寧に推敲された芳賀の文章は言語芸術として香り高い。絶品です。しかし徹という人間はさらに高雅でした。私どもは君の如き優れた人を友とし得たことを生涯の幸福にかぞえます。公私ともお世話になりました。深くお礼申します。君去るも温容髣髴として目に浮びます。ここにいささか蕪辞を連ね、敬慕哀悼の微衷を捧げます。

春は名のみの風の寒さや、君去りて淋しきこの日如月二十六日

辱知平川祐弘


※芳賀徹氏ご葬儀の際に読みあげられた、平川祐弘氏による追悼の辞を全文掲載。  (編集部)


★芳賀 徹氏(はが・とおる=比較文学者・東大名誉教授)二月二〇日、死去。八八歳。

一九三一(昭和六)年、山形県生まれ。東京大学教授を経て、日文研教授、京都造形芸術大学学長などを歴任。著書に『平賀源内』(サントリー学芸賞)、『絵画の領分』(大佛次郎賞)、『藝術の国日本』(蓮如賞)、『文明としての徳川日本』(恩賜賞・日本芸術院賞)ほか多数。
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