中平卓馬をめぐる 50年目の日記(49)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2020年3月30日 / 新聞掲載日:2020年3月27日(第3333号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(49)

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中平さんのコンピューター撮影の手伝いが済んで戻った大学は、ふだんは授業にも出てこない連中も来ていて人で溢れかえっていた。

構内の片隅にあるベニヤ壁の編集小屋がその喧噪を防げるはずがない。だが中は溜息ばかり、会話も途切れて静まりかえっていた。

2号目を出し、原稿料は払い済ませていたが、印刷所への精算はすっかり残っていた。この先入ってくるのは書店に置いた分の売り上げだけだが、それもいつに幾ら入ってくるのか当てには出来ないと思った。

どうするか。皆で話し合ったが、頭割りした額をそれぞれ持ち寄るという結論にしかならなかった。つまり、親に助けてもらうということである。情けないもんだ、結局親がかりになってしまったと皆で愚痴り合った。

2週間という時間を区切って私たちは親たちから借り集めた。そして田町の印刷所への支払いを済ませた。社長さんは「少しくらいなら待てないこともないんですから。また是非一緒にやりましょう」と言ってくれた。それは嬉しい言葉だったが、とにかくこれでどこにも借りがなくなったという解放感の方がまさった。何かが終わったと言う感傷に引き込まれそうになったが、小屋の外の喧噪、目前の新しい事態にその感傷もすぐに消えた。

「日大闘争」の方がすでに堰を切った奔流になっていたからだ。関東に点在する日大の各学部がつぎつぎとストに突入しバリケード封鎖を始めていた。芸術学部は6月半ばになってストに突入、バリケード封鎖に踏み切った。

大学の機構に位置付いていた旧来の学生会に代わる新しい本来的な自治会組織をつくろうとしたが、大学側はこれを学生の代表組織として認めなかった。

それが引き金となり学部の7学科がそれぞれに学生集会を開いて学科闘争委員会を立ち上げた。その各闘争委員会が連合して学部集会を行った。そして芸術学部闘争委員会の設立を決めた。その決議の瞬間から学部全体のバリケード封鎖に入ったのだ。

学部の本館屋上には放送学科が使うミニチュア東京タワーのようなアンテナ塔があり、各学科闘争委員会は決議直後にいち早く自分たちの旗をそこに掲げてなびかせようと、精鋭を選んで階段下に何気ない風に待機させていた。スト決議のサインを受けて脱兎のごとく階段を駆け上がり、一番先にアンテナ塔の梯子に足をかけるつばぜり合いを写真学科の俊足機敏な旗手が制し、塔の一番上に学科闘争委員会の旗を括り付けた。後は鯉のぼりのように下に順番に並ぶのだから私たちは拍手喝采をして彼に歓声を送った。

私たちにはもう一つの秘策があった。旗をなびかせると同時に校舎の上端から大きな壁画写真を垂らす計画だ。その壁画写真というのは、「撃ちてし止まむ」の再現だった。

戦時下の戦意高揚を図って大政翼賛会の報道技術研究会がつくり、有楽町・日本劇場の壁を覆った百畳敷きの大壁画写真は、昭和18年3月にこの年の決戦標語を銘うって掲出されたものだ。その合成写真の原写真を撮影したのが日大の要職の歴任を経て芸術学部長を務めていた金丸重嶺氏だった。

戦後、気鋭のデザイナーや編集技術者の集団である「報研」等の活動は戦争協力の最前線だったことが浮き彫りになるが、朝鮮戦争を経て高度経済成長に湧く社会情勢の中で当時の気鋭たちは再びその牽引役となっていて、戦争と宣伝・報道技術者たちの問われるべき誤謬が論議されることもなかったのである。「写真百年展」がその問題を掘り起こすきっかけにもなった。「撃ちてし止まむ」はそのわかりやすい事例の典型だった。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)(次号へつづく)
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