映画でみる移民/難民/レイシズム 書評|中村 一成(影書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2020年2月21日 / 新聞掲載日:2020年2月21日(第3328号)

映画でみる移民/難民/レイシズム 書評
人間のまなざしと声に触れる
二十を越える映画作品を明解かつ丁寧に解きほぐす

映画でみる移民/難民/レイシズム
著 者:中村 一成
出版社:影書房
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本書は、新聞記者の経歴を持つ著者による社会派の映画作品のブックガイドであり、人権についての啓蒙書であり、そして著者自身の芸術論でもある。
一般的に言って、映画の論じ方とは、二つのスタイルに大別される。一つはその形式を問うもの、そして、もう一つはその内容を問うものである。言うまでもなく、両者の間には大きな溝がある。前者からすれば、形式を透明な道具のように扱う後者は映像の物質性を無視した受容の仕方として映るだろうし、後者からすれば、前者はまるで身体よりも衣服を愛するような倒錯的行為にも見えることだろう。前者においては、映画を「鑑賞」するという言い方ができるのに対して、後者の観者はそうした静観的な立場をよしとしない。つまり、虚構であれ、ドキュメンタリーであれ、映画作品を映画作家からのメッセージとしてとらえ、その主張内容を取り出し、自分自身や自分が生きる世界を反省し、必要であればそれらを改善するためのよすがとして受容するのである。もちろん、二つのスタイルは峻別されるものでもないし、どちらが正しいというものでも決してないが、本書が位置しているのは、間違いなく、後者である。

扱われている映画作品は、優に二十本を越える。第一章「難民とはなにか」では、『太陽の男たち』『イン・ディス・ワールド』『君を想って海をゆく』『ル・アーヴルの靴みがき』『第9地区』を通じて、難民という存在が置かれている人権の「外」という限界的な状況が説明されている。第二章「越境する民」では、『メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬』『ブレッド&ローズ』『この自由な世界で』『そして、私たちは愛に帰る』を通じて、移動の自由を持つかに見える移民たちも潜在的には「難民」であり、同じ限界的な状況を生きていることが示されている。第三章「ホロコーストからナクバへ」(ナクバとはイスラエル建国にともないパレスチナ人が被った「大災厄」のこと)では、『ライフ・イズ・ビューティフル』『サラの鍵』『黄色い星の子供たち』『約束の旅路』を通じて、ユダヤ人迫害とともに被迫害者が迫害者へと容易に変身していくことが分析されている。第四章「血と暴力の国」では『ソルジャー・ブルー』『小さな巨人』『マンディンゴ』を通じて、アメリカ・インディアンや黒人奴隷たちに対する暴力というアメリカという国の原罪が炙り出され、第五章「『人権の祖国』で」では『スカーフ論争 隠れたレイシズム』『移民の記憶 マグレブの遺産』『憎しみ』を通じて、フランスという「人権発祥の地」が今や移民二世、三世やムスリムへの差別大国となっていることが指摘される。そして、終章では『11'09"01/セプテンバー11』のケン・ローチ作品を通じてアメリカの9・11だけが悲劇として特権化されている異常に注意を促している。

いずれの作品解説も密度が高く、登場人物たちの苦しみや葛藤の原因について、その背景を歴史的かつ地政学的な視点から丁寧に解きほぐし、明解かつ熱のこもった説明がなされている。「あとがき」によれば、本書はそもそも「映画を題材とした人権学習のテクスト」という依頼を出発点としているとのことだが、すぐれた啓蒙書たらんとするその意図は十二分に達成されている。

とりわけ、著者が強調するのはレイシズム(人種差別)の問題である。それは肌や目の色といった身体的な差異に関わるものだけではなく、言語、文化、宗教の違いを持った「他者」に対する差別全般のことである。ちなみに扱われている映画はすべて海外のものであるが、難民、移民、レイシズムの実情が海の向こうの出来事ではなく、リアルな実感をもって迫ってくるのは、著者自身が在日コリアン三世として日本で生きている経験に裏打ちされているからだろう。映画に登場する難民・移民のたどった境遇はそのまま日本で生きる著者や在日外国人やアイヌ先住民たちの歴史でもある。本書が海外の事例の紹介に終わらず、それらが日本という国の内部で常に起こってきたし、今も継続中の事象であることを指摘しているのは、本書最大の美点であると言えよう。

では、何故、映画なのか。著者は言う。「作家とは、あらゆる権利をはぎとられた者たちのなかに尊厳をみいだす者、現実の奈落の底で抵抗の光を灯す者たちのことだ。そして、そのようにつむぎだされたことばこそを「文学」と呼ぶのだと思う」(二二〇頁)。また、「テレビが(中略)出来事の背景と歴史性を消し去り、画面に大写しになったブッシュが世界を「敵」と「味方」に分断するとき、ローチは位相の違う映像メディアである「映画」を通じて、観る者に「問い」を投げかけ、「他者の痛みへの共感」で人と人をつなごうとしたのだ。報道と映画、消費されるメディア情報と、人の内面を耕す芸術との違いはここにある」(三〇八頁)。

著者が映画や文学といった虚構を用いた芸術に見ているのは、冷たい現実の向こう側にある「別の世界」を指差す力であり、レイシズムを超えて「共感性」を引き出す力である。これは芸術を志す人々の羅針盤の一つとなる言葉であろう(ただし、構図を整理するためだろうが、「白人キリスト教徒」「フランス社会」「日本社会」といった表現を用いて、それぞれを一括に同じ思想を持つ集団として論じているように読める箇所があるが、これらの表現で指示される全員が全員、「同化と排除」(一五三頁)を求めていたわけではなく、そこに違和感を持つ人々がいたからこそ、同化と排除以外の道が模索され、映画を作る者も観る者も少なからず出てきたということはもう少し丁寧に書いても良かったのではないだろうか)。

いずれにしても、移民、難民、レイシズムの問題は遠い異国の話ではなく、日本の戦後補償、アイヌ差別(国立アイヌ民族博物館が四月に開館すると言う)、ヘイトスピーチ、朝鮮学校補助金停止、外国人技能実習生という労働力の輸入といったかたちで、今なお目の前で続いている。そうした現実について知り、考え、「別の世界」を構想するためにも、本書を紐解き、著者が世界中から厳選してきた映画を観ることをおすすめしたい。ときに虚構に託されて映し出される世界の現実からは、プロパガンダといった目的とは無縁な、人間という同一平面からのまなざしと声に触れることができるはずである。(ふくしま・いさお=早稲田大学人間科学学術院准教授・仏文学・文化資源学)

★なかむら・いるそん=ジャーナリスト。主な著書に『声を刻む 在日無年金訴訟をめぐる人々』 『ルポ 思想としての朝鮮籍』など。一九六九年生。
この記事の中でご紹介した本
映画でみる移民/難民/レイシズム/影書房
映画でみる移民/難民/レイシズム
著 者:中村 一成
出版社:影書房
「映画でみる移民/難民/レイシズム」は以下からご購入できます
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