身体の使用――脱構成的可能態の理論のために 書評|ジョルジョ・アガンベン(みすず書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年6月24日 / 新聞掲載日:2016年6月24日(第3145号)

<生の形式>の根源を探究 「ホモ・サケル・プロジェクト」の最終巻

身体の使用――脱構成的可能態の理論のために
出版社:みすず書房
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『いと高き貧しさ』(二〇一一)に引き続いて、ジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル・プロジェクト」の最終巻『身体の使用』(二〇一四)が邦訳された。前著が剥き出しの生を克服する〈生の形式〉の歴史編にして実践編であったとすれば、本書はその理論編にして原理編であり、まずもって存在論の書として読まれるべきものだろう。

存在論とは、アガンベンによれば、言葉と世界を関係づけ、思考と行動の枠組みになるものだ。よってその変動は、人々の思考と行動にあらわれ、歴史を刷新する。存在論はその意味で――歴史的ア・プリオリだという意味で――歴史そのものでもある。本書では、生をたんなる生と善き生とに分割してしまうアリストテレスの存在論――キリスト教にも密かに継承され長らく西洋の歴史を規定してきた――が批判され、むしろすべての生を幸福な生であるとしたプロティノスから、どのような生をあてがわれようともそれを〈生の形式〉にまで鍛え上げる道筋を示したプラトンへと、遡っていく。その目論見は、包摂的排除の構造に依拠したいわば生成の存在論に代えて、新たに様態の存在論を構想し、〈生の形式〉の根源を探究することである。

鍵となるのは、前著に引き続き本書でも「所有なき使用」だ。なにかを使用するその仕方には、各人のスタイルがあり、マニエラがある。わたしたちの個性をかたちづくっているのは、プライヴァシーとしてしばしば隠されるような各人の本質や本性なるものなどではない。他者の眼に常日頃からさらされている個々の仕草であり、日常的な身振りなのだと、アガンベンは言う。実のところ、人間にとってもっとも個人的で内密なもの――たとえば身体と言語、あるいは風景――は、意のままにはならず、所有できずに、ただ使用されるのみだ。使用とは、言うなれば、所有できないものと適切な関係を築くことにほかならない。そうした自己の知も力も及ばない対象との適切な関係、おのれの無知との調和した関係を、アガンベンは美学の伝統を踏まえながら、これまでたびたび「優美」と形容してきた。これだけが、アガンベンにしたがうなら、愛の経験において共同性を打ち立てるのである。

わたしたちの共通の生を、生物一般に無規定にあてはまる生命の概念のようにではなく、自己が他者とともに生きているその様態、日常のなにげない仕草や身振りのようなものとして理解すること。生政治のなかで擬似永遠化されてしまった生物学的な生に、歴史的な生を取り戻させること――それが、本書で構想される様態の存在論に賭けられている。かつて多木浩二は、戦争への抵抗として日常性を語り、その日常を支えている身振りを、イマヌエル・カントを受けて、「クンスト」すなわち「技術=芸術」と呼んだ。アガンベンもまた、自己の無知との調和した――優美な――関係としての所有なき使用の理論を様態の存在論にまで鍛え上げながら、今日の生政治への抵抗の拠点を、ありふれていて見過ごされてしまいがちな日常性に見定める。おそらくはここから、アガンベンが本来の意味での政治を、芸術とともに、幸福な生だと語ることの含意を汲み取らねばならない。

一九九五年に『ホモ・サケル』で開始された現代人の剥き出しの生の診断は、本書で締め括られ――アガンベン自身の言い回しに倣えば「放棄」された。とはいえ、以後もアガンベンの精力的な執筆活動はとどまるところを知らず、つい先頃も最新著『哲学とはなにか』(二〇一六)が上梓されたばかりだ。〈生の形式〉が人間の日常の身振りにこそ求められるのだとすれば、その追求は生あるかぎり誰もがたえず再開してしかるべきものだろう。(上村忠男訳)
この記事の中でご紹介した本
身体の使用――脱構成的可能態の理論のために/みすず書房
身体の使用――脱構成的可能態の理論のために
著 者:ジョルジョ・アガンベン
出版社:みすず書房
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