ピエタ ボードレール 書評|ミシェル・ドゥギー(未來社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年6月24日 / 新聞掲載日:2016年6月24日(第3145号)

ピエタ ボードレール 書評
隠喩、移送、翻訳 他のテクストへ送り返されるもの

ピエタ ボードレール
出版社:未來社
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本書はフランスの詩人・哲学者ドゥギーのボードレール論集成である。表題の『ピエタ』は『悪の華』の無題の一詩から取られたもの。その一行―――「わたしはこの敬虔な〔pieuse〕魂に何と答えることができるだろう」――の解釈が主題となる。ボードレールが幼少期に親しんだ女中に捧げた鎮魂歌で、詩人は彼女を「神の仲介者と崇めて」(訳註)いた。サタンへの連祷を歌ったトク神者ボードレールは、この詩で「息を引き取りつつある『敬虔さ piet瘁xのかそけき脈拍を聞き分け」、「神への敬虔さを人間への憐れみに変えた」(あとがき)のだった。信仰を失った者の祈りの言葉であり、ドゥギーはこれを詩人の「前言撤回」と解する。パリノディとはボードレールの「内在的な二重性」に注目した用語。デリダのいわゆる〈忠実なる不実〉を意味する。キリスト教という母体から身を退き離す不信心者の身振りをあらわし、「来た道を引き返す」ことである。母なる信仰に逆戻りするかと見えて、むろんそうではなく、あくまでもキリスト教の〈脱構築〉が問題になる。これは最初の近代人であるボードレールから始まった、果敢なる詩の行為なのだ。

いま、なぜボードレールか?――詩人の詩学を今日の詩学に引き継ぐこと。著者はこの問いと、この当為を自分に課す。そこからサルトルの『ボードレール』は言うに及ばず、ボヌフォワの『ボードレールの徴のもとに』(二〇一一年)やバンヴェニストの『ボードレール』(同年)が俎上に載せられる。ともに本原書の前年に出たばかりの本である。巻末収録のインタビューで訳者の鈴木和彦が、ドゥギーとボヌフォワは『悪の華』という「チェスボード」で向かい合っている、と切り込むと、ドゥギーはボヌフォワとの「対立の舞台」に言及して憚らない。要説すれば、〈ドゥギーの「概念」VSボヌフォワの「現前」〉のバトルだが、ドゥギーによると、ボヌフォワはある詩篇のわずか一行から「現前」を拾いあげ、「概念」の脅威から救い出せると考えるが、「わたしには、どうにもそれがよく理解できない」という。詩作は「概念(ノエシス)」の領分に属し、そこでは比喩が、ドゥギーによれば修辞、すなわち隠喩が、とりわけ重要になる。こうして本書の根本理念が告げられる、――「隠喩しか存在しないのです。つまり、隠喩など存在しないのです」。また別のところで、――「隠喩など存在しない。物の存在論には……のような〔comme〕が暗黙のうちに含まれている」。

汎隠喩論といってよい。訳者はインタビューで、ボードレールこそは「……のような」の詩人です、と述べる。ドゥギーの『絶望のエネルギー』(未訳)には、詩とは「のような―存在」である、と。『詩の物と文化的なこと』(同)には、内と外のメルロ=ポンティ的なキアスムにふれて、「のような―存在(互いに互いの他者のような―存在)」とある。ところでドゥギーの語る隠喩には(鈴木の「あとがき」にあるように)、寓意、移送、翻訳も含意される点に注意したい。

ドゥギーは『絶望のエネルギー』の冒頭でブラックの青について語り、その青の由来を問われた画家が、空の青にも瞳の青にも言及せず、彼自身の他のタブローに言及したことにふれて、自作の引用、その〈間テクスト性〉の大切さを語っている。ドゥギーはボードレールの解釈を通じて、彼の他の書物、他のポエジーへと、テクストを「移送」し、本のページを翻させてやまないのである。(鈴木和彦訳)
この記事の中でご紹介した本
ピエタ ボードレール/未來社
ピエタ ボードレール
著 者:ミシェル・ドゥギー
出版社:未來社
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