圧倒的な水中撮影、揺らぐ生と死 小田香監督作品『セノーテ』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

映画時評
更新日:2020年5月22日 / 新聞掲載日:2020年5月22日(第3340号)

圧倒的な水中撮影、揺らぐ生と死
小田香監督作品『セノーテ』

このエントリーをはてなブックマークに追加
セノーテは中米のユカタン半島に幾千と点在する泉や天然の井戸で、奥に水没した巨大な鍾乳洞が広がる。小田香の『セノーテ』は、この神秘的な場所を巡るドキュメンタリーだ。

セノーテの内部を捉える水中撮影の長回しが圧倒的だ。青や緑のカーテン状の光ではなく、暗闇に惹きつけられて、奥底をどこまでも彷徨う小田香の感性に敬服する。だが、それに劣らず編集が素晴らしい。水中の場面と地上の場面を巧みに交替させる編集が、様々なショットの魅力を一層際立たせている。

中盤からラストにかけての展開が特に圧倒的だ。男の顔のクロースアップに続く、緑色の光のなか、鍾乳洞で魚を延々と追うワンシーン・ワンショット。そこに、「私が小さかった頃に聞いた話さ」と老婆の声が重なり、赤子のいる母親や二二歳の若造が泉に飛び込んで死んだと語る。現世と黄泉の世界を結ぶと信じられ、雨乞いの儀式で生贄が捧げられたというこれらの泉は、明らかに死の水だ。次の場面では、家畜の腹が裂かれて内臓が取り出され、犬がそれを咥える。死の主題の継続だ。さらに、老人たちの顔の見事なクロースアップが連続し、「神様たちの踊りについて行きながら、私たちは隕石の夢を見た」と、女の声が被さる。巨大隕石の衝突跡の上にできた石灰地層に鍾乳洞が形成され、この鍾乳洞が水没し、天井の一部が崩落して多数のセノーテができたのだ。再び水中のワンシーン・ワンショットとなり、鍾乳洞の奥をカメラが進む。地上の場面に戻ると、老人たちが踊り、死の水とは対照的な生命感が画面に溢れる。男たちは白い服を着て、帽子まで白い。闘牛の描写を挟んで、またカメラが水中に潜り、鍾乳洞を延々と彷徨う。すると突然、花火が短く示され、「吟遊詩人は預言者だ。預言者は語り部だ。語り部は私たちの記憶を語る」と、女の声が囁く。この急な転調を魅力的にしているのは、水と火、水底と空の対立だ。さらに頭蓋骨が次々と示され、「生者は死者の魂を想うために骨を浄める」と、女の声が被さる。多数の人骨が浄められ、生者と死者の関係という主題が浮上する。再び花火が映され水の音が被さり、火と水の主題が重ね合わされる。またも長回しのカメラが鍾乳洞を彷徨うが、女の顔のクロースアップが突然それを断ち切り、様々な年齢の顔が次々と重ねられる。この編集で秀逸なのは、女の顔に被さるベルの音が転調の契機となることだ。やがて人々の顔に男の魅力的な歌声が重なり、それは地面に蝋燭が並べられる時も、さらにカメラが泉に潜っても続いて、ベルの音とともに終わる。蝋燭の火が花火の火の主題を受け継ぐ。水中撮影に女の声が被さる。「見たこと聞いたこと全て覚えている。何も忘れていない。ありえない記憶。本当に私たちの記憶だろうか」

物語は火と水、生と死など様々な主題の対立に基づいて、水中と地上を行き来しつつ進むが、ここで生者と死者の関係を揺るがすに至る。語り部が語るのは本当に「私たち」今の人々の記憶なのか。むしろ、あらかじめ未来を全て見た古代マヤ人の記憶ではないのか。真の生は彼らの側にあるのかもしれない。私たちがすることを彼らはすでに見て、私たちは彼らの記憶をなぞっているだけなのか。まるで小田香は死の水を撮影しながら、私たちの生を超えた何か別の生を捉えたかのようだ。

今月は他に未公開だが、ラウフ・セバヒの『人生』とハウラ・アスバブ・ベノマールの『明暗』、ファリダ・ブルキアの『路上の二人の女』も素晴らしかった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)

小田香監督作品『セノーテ』
2020年9月中旬〜新宿K's cinemaにてロードショー予定
このエントリーをはてなブックマークに追加
伊藤 洋司 氏の関連記事
映画時評のその他の記事
映画時評をもっと見る >
芸術・娯楽 > 映画関連記事
映画の関連記事をもっと見る >