君よ観るや南の島: 沖縄映画論 書評|川村 湊(春秋社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年6月24日 / 新聞掲載日:2016年6月24日(第3145号)

君よ観るや南の島: 沖縄映画論 書評
政治的な視点から 語られる沖縄の映画

君よ観るや南の島: 沖縄映画論
出版社:春秋社
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まず、本書を通読して強く感じたのは、沖縄の映画を細部まで見据え、深く読み解こうとする著者の揺るぎない強靭な意志である。それは、本書で引用される映画作品の数に端的にあらわれている。ここでは、芸術作品であろうが、プログラムピクチャーであろうが、沖縄に関する映画で手が届くものがあれば、貪欲に取り込み、解剖台に載せられていく。引用される作品には、映画研究者さえ多くは実見したことがないであろうと思われるものが頻出する。また、俎上に載せられるのは映画作品だけではない。問題の核心をめざし、原作、さらに脚本まで渉猟の手が伸びることがある。たとえば『沖縄やくざ戦争』を検証するため、ここでは映画化には至らなかった笠原和夫のシナリオ『沖縄進撃作戦』の点検までおこなっている。そして解剖室では、表面上の表象を突き抜け、隠蔽されている意味、埋没している意味、黙殺されている意味が丹念に掘り起こされていく。つまり、本書を完成させるうえで、費やされた時間と労力は相当なものであったことは容易に推察されるのであり、この精力的な作業を根底から支え、完遂させたのが、ほかならぬ先の執念にも似た意志の力のように思えてならない。

なぜ著者は沖縄に、そして沖縄の映画にこれほどこだわるのか。北海道出身者の著者は沖縄に対し強い共感を抱くという。沖縄も北海道も歴史的に辺境の地、周縁の地であり、「正統」である「日本」という国家から「はずされた」、換言すれば疎外された地であり続けているからだ。

したがって本書では、沖縄の映画がきわめて政治的な視点から語られることになる。たしかに、「あとがき」で「映画によって沖縄を表象することは、すぐれて政治的な行為」であり、「それを鑑賞することも、批評することも、そうした政治性から逃れられない」と記されているように、沖縄の映画といわゆる沖縄問題は不可分の関係にあることは否めない。ここでは「言語」「金網」「沖縄芝居」「ウルトラマン」「南の道」といった、さまざまな観点もしくはキーワードから沖縄映画の特質が解き明かされていくが、それらの最終的な集束先も「沖縄問題」という政治問題である。沖縄決戦から始まり、米軍による占領、基地化という苛酷な歴史をたどってきた沖縄の、「植民地」(「戦利品」)としての沖縄の、逃げ場のない、あるいはけっして勝者にはなれない悲劇的状況。本書は映画の表向きの仮面を剥ぎ取り、表層下で蠢くもの、底流しているものを次々と紡ぎ出しながら、沖縄が背負わされてきた比類なき痛苦を白日の下に引きずり出していくが、同時にこの隷属状態を放置してきた日米両政府の傲慢不遜な対応をも厳しく糾弾していく。このときわれわれは、眼前にたちあらわれるものから目をそむけることができなくなるだろう。いままで「見ない」ことにしていたものを見ざるをえなくなるだろう。

最後に、気にかかったことをひとつ述べておきたい。そもそも「沖縄映画」とはいったい何を指すのかということである。冒頭で何の枠組みも示されないため、考察対象や解釈に違和感をおぼえることがあった。明確に定義するのは難題だとしても、前提となるこの問題に関しては、読者のためにもやはりひとことふれておくべきだったのではないだろうか。
この記事の中でご紹介した本
君よ観るや南の島: 沖縄映画論/春秋社
君よ観るや南の島: 沖縄映画論
著 者:川村 湊
出版社:春秋社
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