吉田喜重・四方田犬彦往復書簡 二人の「H」、二人の「わたし」 あるいはありえたかもしれない「手記」 『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(文藝春秋)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年5月23日 / 新聞掲載日:2020年5月22日(第3340号)

吉田喜重・四方田犬彦往復書簡
二人の「H」、二人の「わたし」
あるいはありえたかもしれない「手記」
『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(文藝春秋)刊行を機に

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一九四一年五月十日、アドルフ・ヒトラーの腹心にしてナチス党の副総裁であったルドルフ・ヘスは、メッサーシュミット機をみずから操縦し、ミュンヘンからイギリスへ単独飛行を行う。彼はただちに逮捕され訊問を受ける。ヒトラーは怒り心頭に発し、ヘスを狂人だと罵倒する。ヘスの意図はいまだに明らかではない。秘密裡にドイツとイギリスの和平工作を行うためであったのか、それとも個人的に身の危険を感じての亡命だったのか。

ニュールンベルグ裁判でヘスは終身刑を宣告され、ベルリンの刑務所に収監される。驚くべきことに、彼はただ一人の囚人として一九八七年まで生き続ける。享年は九十三であった。ヘスの渡英の真意は現在に到るまで不明である。彼はそれを明らかにしないまま、戦後社会の変転を獄窓から眺め、ゴルバチョフの台頭を知りつつこの世を去った。

だがもしここに、ヘスがおのれの人生を真摯に振り返り、すべてを告白した「手記」が存在していたとしたら? 吉田喜重がこのたび発表した『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』は、まさにこの「手記」を中心に展開する長編小説である。かつて吉田監督は『エロス+虐殺』(一九七十年)や『煉獄エロイカ』(一九七十年)『戒厳令』(一九七三年)といったフィルムで二十世紀日本のアナーキストとカリスマ国家主義者の肖像を描き、近未来におけるテロリズムの流行を予言的に映像化した。『鏡の女たち』(二〇〇二年)では、原子爆弾による惨劇の記憶を事後性の相のもとに語った。この映画監督が十七年にわたる沈黙を破り、ここに新作を発表した。誰もが予想もしなかったことにそれは小説、それもきわめて厳密に考え抜かれ、しかも錯綜した構成をもった小説であった。この事件をめぐって、わたしはただちに著者へのインタヴューを申し込んだ。新型コロナウイルス蔓延の状況のもと、インタヴューはインターネットでのメイルのやりとりを通して行われた。(四方田犬彦)
第1回
◆第一信◆
薄暗い納戸のなか、生まれ育った街のはるか遠い記憶

吉田 喜重氏
四方田
 『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』を大きな興奮のもとに読み終わったところです。本書を手にしたときの第一印象は、まだ読む前でしたが、この『贖罪』は吉田さんの精神的、そして肉体的強靭さの確認と証明であるということでした。

二〇〇三年、『鏡の女たち』を観たとき、わたしはその結末部とかつてお撮りになった『エロス+虐殺』とが、ある意味で厳密なシンメトリーを構成しているといった印象を受け、ここに一人の映画作家の世界が完結する瞬間に立ち会ってしまったように思いました。ああ、もうこれで吉田さんはこれ以上、映画はお撮りにならないのではないかという予感を抱いたわけです。もちろん厳密な完結性のあり方には感動を覚えましたが、その一方で、もう期待をしてはいけないのではないかという気持ちに自分を納得させようとしていたのも事実です。

あれから十七年。ヘスが獄中で生きた時間に比べれば短いかもしれませんが、やはり一人の芸術家にとってそれは短くない時間であったように思えます。ロラン・バルトはいくたびも小説を執筆しようと思い立ち、そのたびに逡巡して亡くなってしまいました。マルセル・プルーストも作品を納得のいく形で完成させることができませんでした。しかし眼前に『贖罪』はみごとに完結した小説として存在しています。「満を持して」という表現が、この場合ふさわしいというべきでしょう。

これは誰もが訊ねることになる問いだと思いますが、そもそも小説を執筆したいという欲望は、いつごろからお持ちだったのでしょうか。またこの作品を執筆されるにあたっては、どのような準備が必要だったのでしょうか。

    

吉田
 八十七歳になったわたしの処女作『贖罪』を執筆するにいたった動機は、この小説のなかにも記述されているように、小学五年生、十歳のとき、わたしが生まれた福井市の家に保存されていた古い新聞記事のなかに、「ナチス副総統ルドルフ・ヘス、イギリスに亡命」と、大きな見出しで書かれていたのを読んだからです。

しかし、そのころは日本は激動期。太平洋戦争が起こったのは一九四一年十二月八日、わたしが八歳のときでした。その最初のころはハワイの真珠湾攻撃を皮切りに、日本の軍隊は東南アジアをはじめ連戦連勝していました。しかしそれに逆らうような内容のルドルフ・ヘスの亡命という新聞記事で、日本と同盟を組んできたドイツ、しかもその副総統の敵国イギリスへの亡命、それが不思議でならなかったのでしょう。もっともそれ以後の長い間、わたしがヘスのことを忘れてしまっていたのも事実です。

その後、みずから望んだのではない映画監督という職業に就いて約半世紀、七十歳になった折りに、これが最後の作品と思い、『鏡の女たち』を発表したのです。それからは無為の時間を過ごすことになりました。そうした時間を過ごすなかで、かつてから気にかかっていたヘスのイギリス亡命、その謎を解く作品を書き始めたのです。

ものを書く、創作する。それをはじめて意識したのは、高校二年のとき、国語の時間に教師から作文するように指示され、書いた文章でした。それを教師が評価してくれたからです。内容は生まれ故郷、福井の四季折々の変化を描写したものでした。「自分には文章が書ける」。そうした意識を抱くようになったのは、これがはじめてでした。

その後、同じく高校二年のときに、書店でジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』という小説を目にしました。それはおそらくこの本のタイトルの奇異さに魅かれてのことだったでしょう。

それが縁となり、サルトルがフランス人であったことから、フランス語を学ぼうとして、東京大学文学部仏文科に入り、卒業論文はサルトルの『存在と無』に関するものだった。そして卒業後は大学院に進み、なおサルトルを研究しようと考えていたのですが、果たせなかった。父が失明、働けなくなったのです。慌ててわたしは職業を探し、ようやく見つけたのが、映画会社松竹が助監督を募集しているとの情報でした。そして受験して合格。大学を卒業した春、二十二歳のとき、はじめて映画界に入ったのです。

それ以後、監督したのが十九作品。そして七十歳を過ぎた折り、いつしか天職と考えてきた小説の執筆にようやく着手することにしたのです。

もっともそのためには、ヘス及びナチス・ドイツに関する資料を集めることからはじめなければなりませんでした。そして読書、研究した果てに、七十五歳のころから執筆をはじめ、ようやく十年後に上梓することができたのです。
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この記事の中でご紹介した本
贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争/文藝春秋
贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争
著 者:吉田 喜重
出版社:文藝春秋
「贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争」は以下からご購入できます
「贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争」出版社のホームページはこちら
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