怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ 書評|田口 卓臣(講談社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年6月17日 / 新聞掲載日:2016年6月17日(第3144号)

関係を創造する流体的主体の探求

怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ
出版社:講談社
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わたしたちの繁栄を彩っていた華やかなものたちは、今や色あせ、差し戻しの対象と化している。科学技術(原子力のリスクや発明発見の捏造)、民主主義(ネオリベラリズムの台頭と一党独裁制)、国民国家(オリンピック)など、近代の栄光をあらわしてきた諸理念が、自らの危機を告げ知らせる事態を前に、壊れゆく姿を繕っているように見える。田口卓臣が、『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』によって明るみに出したのは、フランスの百科全書派ドニ・ディドロの思考が近代性に対してもちえた真のラディカルさであり、ディドロが「後世」に差し向けた、人間本来が持ちうる思考の可能性、未来の姿である。

ディドロが近代において正当に評価されなかった理由について、本書における指摘は大きく二つに要約できる。第一に、ディドロは当時形を取りつつあった近代性の特徴をいち早く見抜き、徹底的にそれを解体したという理由。第二に、近代そのものが、自らを批判する「怪物的」存在を排除することで成立する仕組みであった、という理由。近代とは「客観性と正常性の病」の別名でもあった、とも言えよう。

だが、本書は批判的理念を単純な形で提起しただけのものではない。むしろ田口は、ディドロの著作『自然の解明に関する断層』ただ一冊を中心的に取り上げ、最新の研究成果に基づいた丹念な読解を多方向から試みることで、ディドロとともに近代性の複雑な罠を暴いていく。

本書の学問的重要性について、残念ながら詳細を語る紙幅はない。ここでは一つだけ、第四章「流体、異種混交、理論的離脱」の新鮮かつ重要な議論に注目したい。田口はこの章で、ディドロの思考の基本様態を「対象A+X」と名付け、自然を要素Aの集合に還元されないホーリズム的全体として思考可能にする流体Xの存在を指摘する。この指摘に際して、当時その存在がようやく指摘されつつあった「電気」に注目した見解は、ディドロやその周辺の科学史的研究を一新する可能性に満ちている。ラヴォアジェ以前の化学的思考であるフロギストン説を下敷きにしつつ、田口は、「電気」こそが、磁針の方向づけという極小の現象と北極のオーロラという極大の現象をともに可能にする原理であるというディドロの主張を抽出する。だが、本書の指摘はそこにとどまらない。田口がここで強調しているのは、この理論は、極大の現象と極小の現象を短絡的につなぐ一般的な原理ではないということだ。

ディドロの思考は、自然法則の普遍性の了解が、両極端の現象のあいだで、ところどころ飛び石的に見出される特異な現象の把握によってのみ可能であったという事実を浮き彫りにする。一般的原理に貫かれた総体的な自然観と、総体的な自然理解を可能にする科学的全知に基づく人間中心主義は、この見解によって同時に批判される。さまざまな言説を折り合わせて特異点を抽出するパフォーマティヴな方法のみが、諸現象のあいだで無前提に想定されていた「類比」の存在を明らかにすることができる。田口によるディドロ読解は、事実確認的な科学的命題が構造的に含んでいるパフォーマティヴな諸切断の重要性を明らかにする。わたしたちは「ペンの動き」によってのみ認識に到達する。科学的事象Aのまわりでうごめく身体Xの存在によってのみ科学的事実Aが明らかになるとするならば、不定の身体Xこそが真の認識にとって本質的な役割を果たす。この奇妙な、不確定な位相が、近代の背後で、その存在を黙殺されてきた「怪物」なのである。

田口の営為は「怪物」の領域を確定することに成功した。ディドロ論という範疇を超えて、この怪物を再生させることが、本書によって投じられた大きな課題である。田口は「解明」と訳しているが、原語であるinterpr驍狽≠狽奄盾獅ノは「楽器の演奏」という意味もある。わたしたち「後世」の人間には、再び怪物となって自然と向かい合い、そこから新たな音色を響かせる権能が託されているのだ。
この記事の中でご紹介した本
怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ/講談社
怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ
著 者:田口 卓臣
出版社:講談社
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