敗北力 書評|鶴見 俊輔(編集グループSURE)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年1月20日 / 新聞掲載日:2017年1月20日(第3173号)

難民たちの思想
国家と文明の思うままにならぬ生へのメッセージ

敗北力
出版社:編集グループSURE
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 負けるということは意味のあることだ。しかし、それは次の競争に勝つためではない。勝つこと、進歩すること、前に進むことを自明のこととせず、そのゲームからそっと降りることを可能にするという意味で、敗北は大切な出来事なのだ。

本書は、主に二〇一一年三月一一日をはさんだ数年のあいだに書かれた著者自選の文章に加え、著作未収録の文章や未発表の詩がおさめられている。それらに記されているのは、鶴見俊輔が自らの人生の終わりを意識するなかで想起した近現代史上のさまざまな出来事、人、本、言葉である。鶴見の自分史と日本の近現代史とを重ねあわせる思索の豊かさを、私たちは味わうことができる。

「なり得なかったものをひとつひとつ確かめてゆくと、自分でやめたことにゆきつく。それが自分の根拠をつくった」。鶴見は自らの歩んできた道をふりかえってこう書いている。鶴見は、たとえば、大学で働くことをやめ、国家を絶対視することから退き、欧米の知識や理論の紹介を自分で考えたことのように錯覚するのを戒めた。やったことよりも、できなかったこと、やらなかったことが自分をつくり、社会をつくる。

このような態度や身ぶりは、鶴見が歴史と向き合うなかで養われ、熟成されていったものでもある。鶴見がみているのは日本の近現代史の大きな流れであった。日本は欧米諸国とならぶ文明国への進歩に邁進し、その果てに、アジア・太平洋地域での植民地化、戦争、そして二つの原爆による被爆を経験した。敗戦はその道をふりかえるときであった。米国の落とした二つの原爆に対して「もてあそばれたような気がするね」と語った被爆者の言葉から、日本人は戦後を始めるとよかった、と鶴見は述べる。だが、その六六年後、原子力発電所は爆発し、ふたたび多くの人びとが被爆した。いま、私たちは自らの基盤である文明に打ちのめされ、「文明の難民」となった。本書は進歩という勝利に突き進むのをやめ、新たな「根拠」をつくることを呼びかける。

けれども、私たちは「時間を薄切りにしてとらえる習慣」をやめられず、「退行を許さない文明」のなかに生きることを強いられていないだろうか。過去を忘れ、グローバルな競争をいかに勝ち抜くかの議論が、政治家や官僚だけでなく、大学人のあいだでも続けられている。この時代にあって、退行すること、降りること、じっと待つことは、消極的なことのようにみえる。しかし、それらは「難民」としての自己を確認し、別の世界を生きるための積極的な「根拠」なのだと思う。

本書は、その「根拠」に輪郭を与える言葉や思想がどこにあるのかについても思考している。鶴見にとって、それは大学人の言葉ではなく、人びとのあいだで記憶され、生活のなかに根ざしている言語以前のしぐさや気配であった。人を殴りたくないし、殺したくない。殺されたくもない。人を蹴落としてまで地位を築きたくない。戦争はいやだ。弱肉強食の競争社会や戦争を理論や言葉で正当化できたとしても、私たちの日常のなかにある「言語にさえならない身ぶり」がそれらに静かに抵抗する。大学人が描く思想史にはあらわれてこない、人々の日常の抵抗の断片のなかに思想的系譜を描き出す鶴見のまなざし。文明にがんじがらめにされている私たちの知識を、そっと解きほぐし、学び捨てていくための作法がここにある。

今年も経済のために原発の再稼働がつづき、武器の輸出が促進されるだろう。国家のために、新たな軍事基地はつくられ、自然は破壊されるかもしれない。でも、忘れてはいけない。たとえ私たちの日常の思想が国家や文明によって否定されたとしても、私たちは国家や文明の思うままにならぬ生をいつだってあたため、育てることができる。そのような励ましのメッセージとして本書を読んだ。
この記事の中でご紹介した本
敗北力/編集グループSURE
敗北力
著 者:鶴見 俊輔
出版社:編集グループSURE
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