読書人紙面掲載 書評
ヤクザと憲法――「暴排条例」は何を守るのか
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更新日:2017年1月20日
/ 新聞掲載日:2017年1月20日(第3173号)
ヤクザと憲法――「暴排条例」は何を守るのか 書評
取材する側の“ゆらぎ”
絶滅危惧種・ヤクザとの距離感に悩む
ヤクザと憲法――「暴排条例」は何を守るのか絶滅危惧種・ヤクザとの距離感に悩む
編 集:東海テレビ取材班
出版社:岩波書店
評者:高鳥 都(ライター)
ドキュメンタリーのドキュメンタリーである。自社番組を長尺に再編集し劇場公開してきた東海テレビ、その第9弾『ヤクザと憲法』の舞台裏をプロデューサーの阿武野勝彦と監督の圡方宏史が分担して執筆した。ナレーションなしでヤクザの日常を淡々と映し出した映画と異なり、文章は多弁だ。これでもかと気になる部分を明かし、企画・取材・撮影・編集・放送・上映とプロセスをたどる流れは、難関を突破していくアドベンチャーのよう。
なにせ相手はヤクザ。戸塚ヨットスクールの現在を取材した『平成ジレンマ』を皮切りに、あらゆるタブー(と思われがちなもの)に挑んできた東海テレビのドキュメンタリー映画だが、さすがの阿武野プロデューサーもこの題材には躊躇する。警察担当記者を経験し、ヤクザとその家族の人権問題に目をつけた圡方監督の熱意……コンプライアンスに縛られたテレビ局でどのようにして企画を成立させたかが、まず大きな読みどころ。
取材に応じたのは大阪府堺市の「二代目東組二代目清勇会」。川口和秀会長率いる一本独鈷の組織である。きっかけは『光と影』『死刑弁護人』の取材対象者だった光市母子殺人事件の被告側弁護士・安田好弘と、グリコ森永事件の犯人と目された作家の宮崎学……東海テレビが積み重ねてきた過去作からの繋がりだったとは、じつに昂ぶらせてくれる(さらに宮崎の著書に影響されてヤクザになった若者が登場するという偶然まで)。
そして山口組顧問弁護士(当時)を務める山之内幸夫への取材も、作品を成立させるための社会との接点以上の役割がある。はたして“法の下の平等”はヤクザに当てはまるのか――。
撮影中に起きたトラブルやミラクルの数々は本書でのお楽しみとして、いちばん興味深いのは圡方監督の“ゆらぎ”だ。ヤクザ、任侠団体、暴力団、反社会的勢力……彼らをどのように呼ぶかで、受け取る印象は違う。カメラのポジションもしかり。
「ヤクザを肯定しない」という前提のもと始まった取材だが、そこは人と人、絶えず距離感に悩まされる。どちらかが逮捕されるリスクだってある。「法律が唯一の、最後の一線」と決めながら、やがて「この人がヤクザでなかったら友達になれるのになぁ」と書いてしまう、優しさと危うさは他人事じゃない。
全国指定暴力団が居を構える小さな町で生まれ育った評者も、日常と地続きでヤクザという存在があったので、ふと考える。わたしの立ち位置は、どこなのか。やはりゆらぐ。そう単純に割り切れない。
被写体が取材班に土下座で借金を申し込む圡方監督の前作『ホームレス理事長』もそうだったが、ドキュメンタリーの華は“他人の不幸”だ。あっけらかんと、そんな姿が紡がれる。シノギらしき瞬間はあっても、非合法行為そのものは撮れない。撮らせない。こうして切り取られた“弱者”としてのヤクザを代表し、元ひきこもりの不器用な若者が浄化してゆく潔癖排他の現代を弾く。
法律によって社会から切り離され、いまや絶滅危惧種となったヤクザ。同じく存続の危機にある地方局のドキュメンタリー番組……その引き込み役としてヤクザがあり、劇場公開があり、書籍がある。取材する側、される側、どっこいどちらもしたたかだ。
なにせ相手はヤクザ。戸塚ヨットスクールの現在を取材した『平成ジレンマ』を皮切りに、あらゆるタブー(と思われがちなもの)に挑んできた東海テレビのドキュメンタリー映画だが、さすがの阿武野プロデューサーもこの題材には躊躇する。警察担当記者を経験し、ヤクザとその家族の人権問題に目をつけた圡方監督の熱意……コンプライアンスに縛られたテレビ局でどのようにして企画を成立させたかが、まず大きな読みどころ。
取材に応じたのは大阪府堺市の「二代目東組二代目清勇会」。川口和秀会長率いる一本独鈷の組織である。きっかけは『光と影』『死刑弁護人』の取材対象者だった光市母子殺人事件の被告側弁護士・安田好弘と、グリコ森永事件の犯人と目された作家の宮崎学……東海テレビが積み重ねてきた過去作からの繋がりだったとは、じつに昂ぶらせてくれる(さらに宮崎の著書に影響されてヤクザになった若者が登場するという偶然まで)。
そして山口組顧問弁護士(当時)を務める山之内幸夫への取材も、作品を成立させるための社会との接点以上の役割がある。はたして“法の下の平等”はヤクザに当てはまるのか――。
撮影中に起きたトラブルやミラクルの数々は本書でのお楽しみとして、いちばん興味深いのは圡方監督の“ゆらぎ”だ。ヤクザ、任侠団体、暴力団、反社会的勢力……彼らをどのように呼ぶかで、受け取る印象は違う。カメラのポジションもしかり。
「ヤクザを肯定しない」という前提のもと始まった取材だが、そこは人と人、絶えず距離感に悩まされる。どちらかが逮捕されるリスクだってある。「法律が唯一の、最後の一線」と決めながら、やがて「この人がヤクザでなかったら友達になれるのになぁ」と書いてしまう、優しさと危うさは他人事じゃない。
全国指定暴力団が居を構える小さな町で生まれ育った評者も、日常と地続きでヤクザという存在があったので、ふと考える。わたしの立ち位置は、どこなのか。やはりゆらぐ。そう単純に割り切れない。
被写体が取材班に土下座で借金を申し込む圡方監督の前作『ホームレス理事長』もそうだったが、ドキュメンタリーの華は“他人の不幸”だ。あっけらかんと、そんな姿が紡がれる。シノギらしき瞬間はあっても、非合法行為そのものは撮れない。撮らせない。こうして切り取られた“弱者”としてのヤクザを代表し、元ひきこもりの不器用な若者が浄化してゆく潔癖排他の現代を弾く。
法律によって社会から切り離され、いまや絶滅危惧種となったヤクザ。同じく存続の危機にある地方局のドキュメンタリー番組……その引き込み役としてヤクザがあり、劇場公開があり、書籍がある。取材する側、される側、どっこいどちらもしたたかだ。
この記事の中でご紹介した本

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