ダーク・ドゥルーズ 書評|アンドリュー・カルプ(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年1月27日 / 新聞掲載日:2017年1月27日(第3174号)

偽悪的挑発に満ちた書
非対称的なドゥルーズ

ダーク・ドゥルーズ
出版社:河出書房新社
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どこかでレヴィ=ストロースが、或る地域に混在して生活する二つの部族について書いていたと思う。両部族に混在のイメージを尋ねたところ、Aが境界線を挟んで両部族が対峙する図を描いたのに対し、Bは円を描き、その内と外に各部族が配置される図を示したという(どちらがどちらであったかは失念)。

同じ地域に住みながら異なる世界観を産出する二部族のこの逸話を、本書を読んで想起したのだった。ドゥルーズの資料体という<同じ諸要素>から、<白いドゥルーズ>と<黒いドゥルーズ>が発生する――双子あるいは分身のように。<肯定と喜びの哲学者>が白だとすれば、本書が提示するのは暗黒のそれである。そして両者の関係を、対称から非対称へ変形する必要がある。

左右の区分は失効したと口にするリベラルは、己の恐怖を否認しているように見える。階級の露呈への恐怖、奪われることへの恐怖。必死に舌を動かして、その日の到来を祓い除けようとする。舌を動かすだけで祓除可能だという信念。市民社会における呪術。憎悪は何も変えないと言うとき、何も変えたくないのは自分だということを、彼は隠蔽していないだろうか。差異と多様性と共生を唱えるとき、私有権を橋頭堡として差異を商品化し資本蓄積してきた長く複雑な経緯の中で自分が<持つ者>たりえた歴史的過程を、彼は<差異の思考>の称揚によって蒸発させようとする。<歴史>を<生成>と対立させつつ後者を称揚する一方、人びとの過去の変革の試みの数々を嘲笑し、<左翼の惨劇>と一括して<歴史>の屑函に投棄し、あらゆる政治的試みを封鎖する政治を着実に行使する。つまりは<忌まわしい記憶>に固執しており、自分の利害に係わる限りにおいて、彼は<歴史>に明白に依拠している。

だが中立の外見をまとった<寛容>が、そのじつ恐怖の否認を担うのだとしても、<リベラル>という名で私の中に結ばれた<口舌の徒>という偶像に、私の中に巣食う憎悪を投射するのはもうやめる。むしろ「[…]差異の形而上学とは、様々なものが他者から剥奪されてきた帰結であるとも言える[…]」(本書39頁、以下数字のみ)のではないかという言葉を、私は己自身に差し向ける。そして差別者を賢しらに、(一見)中立的に批判する立場から、この立場と対称的な関係にある差別者の位置へ移動するのではなく、二つの立場のいずれに対しても非対称的な関係を結ぶ第三の立場、<被差別者になること>の経験へ、私は私を引きずってゆく。

憎悪は対称性を逸脱する。「憎悪は愛の矛盾的な補完物であり[…]ルサンチマンへの堕落を容易に回避できる」(32)。「副次的なもの」「反対のもの」(42)とも言いかえられるこの「矛盾的な補完物」が、非対称の関係を開き、「「互いに補完」し合いながら働」く「限定的否定という弁証法の論理」(同前)をすり抜けて、二項間の対称的な関係に、<外の力>を注ぎ込む。対照されるのは「闇と喜びであって、闇と光でもなければ、喜びと悲しみでもない。反対のものはそれぞれが曲がりくねった道であり、肯定に誘惑されるたびごとに姿を現す別の道なのである」(同前)。「反対のもの」を通して「各々の項を闇にする<外>」が出現し、「反対のもの」が占める「この位置こそ闇の不規則な力が国家的思考の喜びを撃つ起点となる」(同前)。だからここでの<憎しみ>は、<喜び>と対立するのではなく、<喜び>を「国家的思考」が支える場合もあり、そしてそれが世界の現状であると告げている。私たちは今日、<喜ぶこと>を強いられている。

本書がドゥルーズの資料体から力づくで抽出する<暗黒のドゥルーズ>は、<喜びの哲学者ドゥルーズ>と非対称的な関係にある。この点を理解しなければ、本書の議論は<肯定と喜びの哲学者ドゥルーズ>派への露悪的な嫌味にしか聞こえないし、<現代思想>の言論産業を盛り上げる疑似的イヴェントの一つとして、不毛な対立を産むための打ち上げ花火にしか見えない。<喜び>や<肯定>が、かつてとは異なる力の体制に占拠されることもある――<非対称的なドゥルーズ>を抽出する手順そのものには問題があるかもしれないにせよ、本書が指摘するのはそれだけである。<憎悪>がかつての<肯定>や<喜び>と同じ意味をもつ。そんな力の配置として、現在を捉えようということだ。本書は例えば多義的な<リゾーム>を一義的に単純化して否定しているのではない。<憎悪>が<リゾーム>を<超える>という話でもない。それは誤解である。そうではなく、<リゾーム>を一義化した現状を批判しているだけだ。この点を把握しなければ、再び無意味な対立が戻ってくる。どのドゥルーズであれ、肯定するのであれ否定するのであれ、それはドゥルーズの<偶像―フェティッシュ>化である。むしろ本書は<憎悪>を一つの政治的カテゴリーにまで高めようとしており、その意味で<フェティシズムの完成>としての<ニヒリズム>とも無縁である。偽悪的な挑発に満ちた本書に、しかし、いかにも<破壊>に相応しいかに見える項目である<死>――<フレンチ・セオリー>の隠語――が見いだされない点が、その傍証たりうる。各章各節に読まれる扇動的・挑発的題辞に惑わされる必要はない。今日<寛容>が恐怖の否認の別名だとすれば――「喜びの最大の罪は寛容である」(126)――、同じく今日、<憎悪>とは階級政治の別名ではないのか。本書が今日書かれた意味はそこにある。言いかえれば、<暗黒のドゥルーズ>と<喜びの哲学者ドゥルーズ>を対称的にしか捉えない<中立>的立場を占めるのは、階級の露呈に恐怖する者たちということになるだろう。くり返すが、差別者と被差別者を対立する二項と捉えて、前者を<中立>的立場から批判する者は、後者の位置に自分が立たされることへの恐怖を押し殺しているからである。本書は、本書に対する反応如何によって、読者各々の<階級的無意識>を明らかにする、<現代思想における政治>的リトマス・ペーパーたらんとしている。<である>ではなく<たらんとしている>としたのは、この判別式には、指標が足りないからである。指標の不足については本書所収の<ドゥルーズ専門家>による「応答」が示しているので、参照していただきたい。不足よりも強調すべきはむしろ、<秘密>と<共謀>による<識別不可能性>(37―40、119―120参照)に沿った<革命>を説く本書が、言論界を覆う<公共性>と<透明性>をその内側から掣肘し、<革命的知覚>を手にした者にのみ解読可能な暗号を発して読み手を選ぶ、<活動家の言説>の趣を呈している点にあり、<現代思想>からこうしたアプローチが(ひさしぶりに?)出来した意義は大きい。民意や世論をも含めた今日の言論が、任意の者の<躓き>を創りだしては恣意的かつ確実に攻撃を加える一方で、大衆の政治的発話が政治に反映されないという表面上の非対称性が、実際には対称的な関係にあるということまでもが、本書の理路から可視化されうるように思われる。この対称性を引き裂かなければならないだろう。
<同じ>資料体から非対称な<双子>を生む本書の手つきに<構造主義>を感じる。アメリカ・インディアンの神話における<オオヤマネコとコヨーテ>の関係を、レヴィ=ストロースは<インディアンと白人>という不可能な<双子>の形象として分析した。<旧世界>では同一性に収まろうとする<双子>が、<新世界>では還元できない敵対(非対称性?)を露出させる。それでは、<世界>それ自体の<破壊>を説く本書は、はたして反<構造主義>的だろうか。<構造主義>とそこから生まれた反<構造主義>の関係は対称的なのか、非対称的なのか、それとも無対称なのか。ドゥルーズ(どの?)は<構造主義者>なのか。勿論、抑々ドゥルーズの資料体を<矛盾の想像的な解決>という意味での<神話>と解してよいのか――一連の問いが、私の中の<現代思想と政治>という問題を軸として、対称的に(?)旋回し続けている。(大山載吉訳)
この記事の中でご紹介した本
ダーク・ドゥルーズ/河出書房新社
ダーク・ドゥルーズ
著 者:アンドリュー・カルプ
出版社:河出書房新社
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