「ヘールシャム化」する世界 バイオテクノロジー社会の行く末にあるもの 『わたしを離さないで』(小説/映画/ドラマ)を解読する|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年3月18日 / 新聞掲載日:2016年3月18日(第3132号)

「ヘールシャム化」する世界 バイオテクノロジー社会の行く末にあるもの
『わたしを離さないで』(小説/映画/ドラマ)を解読する

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一月よりTBS系列で、ドラマ《わたしを離さないで》が、綾瀬はるか・三浦春馬・水川あさみ・麻生祐未などの共演で全国放映されている(三月一八日が最終回)。原作は二〇〇五年に刊行され世界的ベストセラーになった、カズオ・イシグロの『NeverLetMeGo』。日本でも翌〇六年に早川書房から土屋政雄訳で翻訳出版され(〇八年に文庫化)、現在では累計五〇万部に達している。また、二〇一〇年にマーク・ロマネク監督により映画化され、日本でも翌年に公開。さらに二〇一四年には、蜷川幸雄演出で舞台上演もされた。「臓器移植」と「クローン人間」という重いテーマを扱いながら、多くの人々に長く読み継がれてきた、その魅力とは何か。生命倫理学に関わる著作を多数著わしてきた武蔵野大学教授・小松美彦氏と、これから医療の世界に進む学生に対して倫理学を講ずる東京医科歯科大学准教授・田中智彦氏に、小説・映画・ドラマを比較対照しながら対談をしてもらった。(編集部)

重厚なドラマ

小松
なぜ、今、あらためてテレビドラマ化なのか。その意義を念頭に置きつつ、この朽ちることなき名作に関して、いくつかのテーマに分けて論じてみたいと思います。田中さんは、翻訳が出てほどなく『科学』(二〇〇六年九月号、岩波書店)に、作品の本質を汲み上げた静謐な書評を著し、そもそも私自身が『わたしを離さないで』の存在を知ったのは、田中さんのご教示によってでした。

お話ししたいテーマは大きく分けて三つあります。まずテレビドラマの評価。全十回の放映予定のうち我々は第七回目までしか観ていないわけですが――奇しくも本紙発売日が最終回放映日にあたります――その限りで小説や映画版と対照しながら批評を交わしてみたい。次に小説本体の分析。紙幅の関係上とくに重要だと思える点に絞らざるを得ないとすると、私見では、なぜ主人公たちは自らの境遇に抗わないのか、また、この作品になぜかようなタイトルがついているのか、この二つです。そして最後に、作品の枢軸をなす臓器移植、ひいては今日も猛進を続けるバイオテクノロジーや先端医療についてです。そこでまず、田中さんからテレビドラマに対する感想・評価をおっしゃっていただけますか。
田中
原作をドラマ化する際、製作者側に色々とご苦労があったかと思います。舞台を「一九九〇年代・英国」から「現代・日本」に移し替えなければいけない。また原作を読んでいない視聴者のことも考えなければならない。テレビですからどれぐらい視聴者を引き付けられるかといった課題もあったでしょう。そのため原作とは大きく違っている点があります。まず、ドラマでは主人公の恭子をはじめとするクローンたちと社会との関わりが描かれている。それは例えば支援者の存在であり、主人公たちに対する病院関係者や警察関係者の無慈悲とも言える振る舞いです。他にもクローンたちが自分たちにも人間としての権利を与えるよう訴える。これは原作にあるヘールシャムの運動を翻案して、その意味と限界を視聴者にわかりやすく伝えるために挿入されたように思われます。また、原作は人物造形がとても細やかで奥行きがあるのですが、ドラマで再現するのはやはり難しいのでしょう。そこで次善の策として、新たに真実という人物を登場させ、彼女に原作の主人公(キャシー)や他の人物のパーソナリティを部分的に移し替えている。そういった工夫が随所になされていて、原作を読んでいない視聴者でも、原作が描く世界に入っていけるようになっています。ただ、やむを得ないこととはいえパーソナリティを分割したために、原作の主人公(ドラマでは恭子)がなぜそのように思い、考え、振る舞うのか、原作者のカズオ・イシグロがこの小説世界を通じて何を語ろうとしているのかが、少し平板になってしまった憾みがあるように感じました。
小松
ドラマは毎回なかなか見せるものになっていると思います。役者も頑張っている。特に恭子の子供時代を演じる鈴木梨央がいいですね。ただし田中さんも指摘されたように、様々な工夫をこらすことよって、逆にキャシー(恭子)の内面の厚みが薄らいでいる。映画ではキャシー役を、キャリー・マリガンが憂い豊かな面持ちで演じていました。その点では未見の三回、とりわけ最終回がどういう形で終わるか、そこに期待したいと思います。

ドラマについて何点か付け加えておきます。まず随所に小ネタを入れている。おそらく演出のチーフは吉田健で、一九九三年の《高校教師》以来、野島伸司とのコンビでドラマ作りをしてきた人です。その《高校教師》の重要なシーンと同じ演出法も、今回所々に挟み込まれている。ひとつだけ述べておきます。《高校教師》の第五回「衝撃の一夜」で、主人公の高校教師と女子高生が、初めて身も心もひとつになる一晩を過ごす場面があります。その夜が明けた朝、二人が北鎌倉駅のホームで、むつまじく会話をしていると、その手前にいきなり電車が滑り込んできて視界を遮る。見ている私たちと主人公たちの気持ちが一体化するところを、完全に断裁する形になっています。元々は寺山修司の《書を捨てよ町へ出よう》や《田園に死す》で扱われた手法でしょうが、本作にも見られます。「のぞみが崎」を訪れた恭子が、幼い頃に失くしたCDを見つけた後、山の中の駅のホームで、夢について語る友彦に向かってこう告げます。「わたし、やっぱり、トモのことが好きだなあって。変な意味じゃなくてね」。極めて重要なこのシーンでも、そこに電車が入って来て視界を遮り、二人は私たちとは「逆の方向」に向かう電車に乗るわけです。

また、田中さんの話にも絡みますが、原作に比べて批判色がかなり強くなっている。陽光学苑の長にあたる神川先生(麻生祐未/原作ではミス・エミリ)が、臓器提供を使命とするクローン人間の生徒たちに対して、「あなたたちは天使なのです」と不気味な笑顔で何度も語りかける。ここでの天使とは、「いかにも」という意味での天使には留まらない。実際の「臓器提供意思表示カード」には、まさに微笑んだ天使の絵が描かれていて、そこに引っ掛けているはずです。また、生徒たちはひとつずつ臓器を提供していくわけですが、三つの臓器を一度に摘出されることを「解体」と呼んでいることにも、批判色が表われている。そして田中さんも触れた真実の存在。原作と映画版にはない彼女に語らせることによって、臓器移植、クローン技術を鮮明に批判する形になっている。特に第三回目、真実すなわち「しんじつ」がこう訴えます。「そうやって逃げ続けるから何も変わらないんだって。私たちそこに付け込まれるんだって。そう思わない?」。この放映の三日後の二月一日、讀g新聞の朝刊一面の「編集手帳」欄で、真実の発言に呼応するかのように、ドラマが取り上げられます。臓器移植やバイオテクノロジー全般を再考しなければならないという趣旨のことが書かれ、最後は「人は科学の発展に努めつつ、倫理に悖る行いのないよう自らを律する必要がある。軽々に「もう止められない」と言うべきではない」と結ばれている。

さらには、このような流れに危機意識を感じたと思しき報道がありました。二月二五日、六歳未満の小児の臓器提供がなされ、従来よりもかなり大きく扱われた。特に印象に残ったのがNHK一九時のニュースです。両親がその子供に宛てた「私信」を、アナウンサーが朗読し、それも手紙の一部ではなくかなり長い朗読でした。この日の深夜のサッカー番組のハーフタイム間のニュースでも、トップから二番目に報道され、やはりアナウンサーが非常に感情を込めた語調で読み上げた。そういうところにまで、ドラマ《わたしを離さないで》は影響しているのではないかと思います。
田中
「真実」という名前は象徴的ですよね。原作の主人公(キャシー)も決して自らを憐れみません。彼女は自分が失った人たちのことを語りますが、死者である彼らに対して常に公正であろうと努めています。彼らについて証言し、彼らと和解し、彼らを抱きしめ、記憶に刻みます。それでいて彼らが「失われた」ことから目を逸らさない。クライマックスでは最愛のトミーがそこに「いる」という幻想を自分に許しますが、それもほんのひと時だけです。全ての希望が失われても、絶望に身を委ねはしない。そうしたキャシーのありようが、ドラマでは恭子と真実の二人に分けられることで、恭子のうちに必ずしも見出せなくなっている。臓器移植やクローン技術への批判という点ではうまくいっているのでしょうけれど、他方で原作の世界をどこまで再現できているのか。様々なことを勘案して真実という人物を設定したとは思いますが、その点はやはり物足りなかったなという印象があります。
小松
制作者は相当苦労してやっていると思いますね。台詞回しひとつとっても、若い視聴者に目がけて、一番伝わるにはどうしたらよいかを考えて作られている。確かに、田中さんがおっしゃるように、原作のキャシーが持つ柔らかさと厚みが出ていない点では不満が残る。それに関しては、やはり残りの三回、いかに綾瀬はるかに演じさせて何を喋らせるか、終幕をどうするかにかかっている。
田中
楽しみですね。
小松
現代批判の色彩が強くなっていることについて、もう少し述べておきます。それは視覚面・言葉の面、双方から言えることです。例えば、臓器提供の通知書が「赤紙」になっており、徴兵制の再来の可能性を確実に意識した演出でしょう。真実が恭子に対して、クローン・ドナーとなる自分たちの基本的人権と幸福の追求権を訴えるシーンでは、憲法第十三条が読み上げられます。これも現在の日本の動向に対する告発、視聴者への呼びかけになっていると思います。
田中
辛口のことばかり言ってしまいましたが、臓器を摘出される側の身体を可視化したのは、ドラマだからこそできたことでしょう。臓器摘出後、手術台に放置される姿も、運び出されて焼却炉に投げ込まれるシーンも、人間がモノとして扱われる光景であり、臓器移植の本質を象徴する事態です。それらをまざまざと可視化して見せた。その意味と効果は決して小さくないでしょう。
小松
そうですね。ドラマも映画と同様、冒頭は手術台の友彦(トミー)にメスが入れられるシーンで始まっている。その時に、友彦は自分を見つめている恭子(キャシー)を見つめ返しているわけですが、その眼差しは彼女を貫いて、私たちに突きつけられたものになっている。そこを可視化したことが一番重要だと思います。総じて、これだけ重厚なドラマは現今の日本にはないでしょう。

「生権力機関」(フーコー)

小松
次の論点、核心的な問題に移りましょう。原作小説の分析です。主人公たち、臓器提供を運命づけられているクローン人間たちが、なぜ自らの境遇に抗わないのか。反旗を翻さないのか。まずこの点について議論したいと思います。
田中
まずカズオ・イシグロ自身の言葉を確認しておきたいと思います。「なぜ逃げようとしないのか。そう質問されたとすればこう答えるしかない。この物語では死と向き合うことを描きたかったからだ。――私たちは年老いていき、少しずつ体の自由が利かなくなってやがて死を迎える。人生を全力で生きることはできるが、運命を避けることはできない。だからキャシーたちは運命から逃げようとはしない。逃げる先もないんだ」。このことを踏まえた上で、あえて先の問題を議論するわけですが、それではもし自らの境遇に抗う、反旗を翻すとすれば、それにはどんな条件が必要でしょうか。

もちろん思考する能力は必要でしょう。ですがそれだけでは十分ではないように思われます。他にも例えば、彼らが今いる場所から逃れて、身を隠して生きていける場所があるかどうかということ。また、彼らをそういう境遇に置いている社会のルール、いわばゲームのルールを、彼ら自身がどこまで知り得るかということ。そうした知識がまったくなければ、その社会を作っている人間たちの裏をかくことも、ルールを逆手にとって行動を起こすことも困難です。この点、原作のヘールシャムという施設が外界から完全に隔離されていることの意味と効果は、過小評価しない方がよいでしょう。ヘールシャムは右の二、三番目の条件をほぼ完全に奪うものです。

ヘールシャムの運営方針はクローンたちに「子供時代」を与えることでした。それは裏返せば、彼らを「子供時代」に釘付けにすることです。普通の境遇であれば、子供は大人をロールモデルにして成長し、社会やそのルールについて知ることができる。しかしヘールシャムのクローンたちは、運営者の「善意」によって、その可能性を組織的・構造的に奪われている。しかもヘールシャムを出された後、彼らに残されている時間はあまりにも短い。この世界と生を理解する術も時間もないまま、否応なく定められた「死と向き合う」ほかはないわけです。
小松
ヘールシャムの子供たちは、単に物理的に逃げられる外側がないから逃げないのではない。内面的にも逃げられる外側を作られていない。自らの宿命について、十全には理解できないように育成されているのだと、私も思います。「教わっているようで、教わっていない」「教わっているけど通り一遍」という言葉で、作中何度か語られるし、ミス・エミリ自身が最後に、そういう教育をしてきたことを告げています。

それと関連した話で、最初に原作を読んだ時、ヘールシャムは全寮制の学校だと、私は思っていたんですね。しかし、あれは学校ではない。先生たちも通常の意味での先生ではない。た
しかに翻訳では「○○先生」となっていますが、「teacher」という言葉は原書には一回も出てきません。そこで英文学の研究者に尋ねたところ、イギリスの全寮制の学校で「先生」を表すのは、「master/mistress」だそうです。にもかかわらず、原書では「guardian(保護官)」と記されている。つまり、ヘールシャムの「先生」とは、通常の先生ではなく、一種の後見人なのです。

ヘールシャムという名前
それ自体にも意味が隠されていると思い、原語を調べてみました。はたして「Hailsham」とは、「hail(存在そのものを認める)」+「sham(偽物)」であり、すなわち、「偽物(クローン)歓迎/偽物(クローン)万歳」という意味なんですね。そのような名称に体現された時空間に子供たちを囲い込んで管理し、羊のごとく従順なドナーになるように飼育していく。まさしくフーコーの言う生権力機関がヘールシャムにほかなりません――ちなみにドラマでは、真実に自分たちのことを「家畜」と言わせています。その中で人間としての内面を奪われ、心的にも逃げられる外を持てない。よって反乱を起こすこともできない。そんな風に私は読みました。
田中
「guardian」には二重の意味があるのでしょうね。囲いの中にいる者を保護すると同時に、囲いの中にいる者たちから外の人間を保護する。

ところで、内面というものについて話が出ましたので付言しますと、エリクソンが一九六〇年代にこう指摘しています。「多くの黒人男性は、自分の周囲を取り囲んでいる白人の「否定的」な目の反映物に成り下がってしまっている。それはあたかも、像を歪める鏡の間に閉じ込められ、自分のかたわな姿を信じるようなものだ」。そしてこの「悪魔的に効果的なやり方は、今も続き、一定の影響力をもち、平等が「容認」されている場合ですら、その平等な権利を行使してはならないという仕組みになってしまっている」と。これはヘールシャムにも通じるものでしょう。

ただ、彼らが内面を奪われているかどうかに関しては、私としては留保をつけておきたい。確かに彼らは自らの境遇に抗わないし、反旗を翻しもしません。羊のように従順に育てられ、沈黙しているように見えます。ですが決して「沈黙=無音」ではありません。沈黙の中には様々な叫びがあります。怒りや悲しみがあり、歓びがあります。例えばトミーは、ミス・エミリと再会してこの世界がどんなところなのかを知った後、荒野の中で地を蹴り、闇を叩き、咆吼します。その悲痛な叫び声を聴いたのは、ただ風とキャシーばかりです。しかしその後、最後の日々を過ごすトミーはとても穏やかに見えます。そのトミーの沈黙は、内面のなさや従順さの現れなのでしょうか。私たちは互いに「内面を表現せよ」「考えていることを言葉にせよ」と要求することに慣れています。そして「沈黙」を「同意」とみなし、表現されないもの・表象されないものを「ないもの」とみなすことにためらいを覚えません。ですが私には、それは他者を侮り切り捨てる、控えめなやり方にすぎないと思われるのです。またその意味で、「彼らはなぜ抵抗しないのか」という問いには、もしそこで沈黙の奥にあるものに耳をそばだてることが欠けているなら、そのように問う者自身が、彼らをその境遇に追い込んだ者たちとさして変わらぬ立場に立つことになるという、そうした危うさがあるように思われます。
小松
直接的な抵抗や反乱だけが「抗う」ことではないと、私も思います。田中さんが言われたように、トミーは子供時代と同じ叫び声を上げた後、淡々とした生活を送りながら、手術台にのぼっていく。キャシーもキャシーなりに、先にいった無数の仲間たちの運命を引き受けながら、淡々と生きていく。これも抵抗になっていると思います。そういうキャシーたちの姿を見せることによって、バイオテクノロジー社会の根本問題を、カズオ・イシグロは浮き彫りにしたのではないか。

題名に込められた意味

小松
また小説の場合は、臓器提供者はクローンであり、ある意味で物が言えるはずの人々です。しかし現実世界の主なドナーは脳死者であり、肉声を発することができない。主人公たちに直接行動を起こさせない作品構成を採ることで、脳死者の沈黙の内実を私たちに投げかけ、実際の脳死・臓器移植と、私たちの倫理観に再考を促しているのではないかと思います。
田中
そうなのかもしれません。ただここでも、物を言える人・言えない人という分け方については、再び留保をつけておきたいです。物を言えない人の「言いたいこと」はわからない。それはそうだとして、では物を言える人の「言いたいこと」はわかるのか。どこまでわかるのか。「語られたこと」を尊重するのは大事なことでしょう。ですがその時、そこにはそれが語られることで「語られなかったこと」「語り得なかったこと」があったはずなのです。それが何かは必ずしもわからない。聴く人にはもちろん、時には語る当人にさえも。だからそれは「なかった」ことにされてしまう。しかし私には、その「わからない」けれども「あった」はずのものへの気遣いが、あるいは畏れがなければ、「語られたこと」を真に尊重することにはならないように思われるのです。またそれゆえに、本人の意思や同意、自己決定権の尊重を何か核心的なことのように説くバイオエシックスが、私の目には倫理としてあまりに皮相的なもの、浅薄なものに映るのです。

それと抵抗の話で一つ付け加えますと、ドラマを見ていて、抵抗のあり得たかもしれない形について考えさせられました。クローンたちは自分たちも人間だと訴えますが、弾圧の果てに皆「即時解体」され、真実は自死に追い込まれます。ではそれ以外にどういう形の抵抗があり得たか。支援者がクローンたちを脱走させて、普通の人間と同じように、普通の人間と見分けのつかないように、暮らさせることはできなかったか。発想の元にあるのは、ベトナム戦争時のベ平連による脱走兵支援ですが。
小松
なるほど。ただしベ平連の場合、自分たちが脱走させたことを、社会に公言したわけですよね。アメリカ兵個々人を救うという問題を超えて、世界に向けてのメッセージになっていた。同じように真実たちの支援者も、単に真実たちクローンを救うのではなく、臓器移植の受益者が生きるその社会の中にこそ彼女らを解き放った意味を伝えることが肝要だと思いますね。
田中
そうですね。そしてこの場合には、「あなたの隣人もクローンかもしれませんよ」という仕方で社会を動揺させる意図もあるわけですよね。もっともそれならそれで、クローンを作る側は遺伝子にマーカーを付けて識別可能にするとか、遺伝子操作をしてそもそもクローンが心や思考を持たないようにするのかもしれません。人間はどこまでも邪悪になれますから。
小松
次の論点に入りましょう。もうひとつの重要な問題、なぜこの作品が『NeverLetMeGo』という題名になっているのかについてです。生命倫理学者の大谷いづみさんが、「わたしをいかさないで」の「いく(Go)」とは「行」ではなくて「逝」、つまりは「わたしを逝かさないで」なのだと指摘しています(『現代思想』二〇一二年六月号)。この意味が第一にあると私も思います。ただし、この「Go」は単に空間的移動を表しているのではない。「disappear(消滅させる・処分する)」に近く、「わたしを処分しないで」という意味が第二にあると思います。

さらに深い意味を読み解くこともできるように思われます。小説のラスト近く、キャシーとトミーと謎の人物マダムが話す場面で、マダムはこう言います。「新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して、効率もいい。古い病気に新しい治療法が見つかる。すばらしい。でも、無慈悲で、残酷な世界でもある。そこにこの少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だとわかっているのに、それを抱き締めて、離さないで、離さないでと懇願している」。キャシーは子供時代、入手したカセット《夜に聞く歌》に収録された《わたしを離さないで NeverLetMeGo》という曲を、ヘールシャムの部屋で聴いていた。ジュディ・ブリッジウォーターという名の架空の歌手の、架空の歌。つまり、失くしたものが流れ着くとされる海岸ノーフォークのロストコーナーへと繋がり、さらにその先へと延びた、「架け橋」をおそらく意味するブリッジウォーターの歌う、《NeverLetMeGo》です。ちなみに、その歌手のファーストネームのジュディとは、侵略者に水源を断たれたユダヤの町を救った女性ユディト(旧約聖書『ユディト記』)に由来するのでしょう。キャシーはそのようなテープを聴き、あることを想像しながら、ひとり踊っていた。部屋の扉は開いており、その姿を見て、マダムが泣いていた。あの時の涙は何だったのか。大人になったキャシーがマダムに質問する。それに対する答えが、引用した言葉です。

ヘールシャムの保護官たちや外から時々やってくるマダムは、クローンである子どもたちを心の中では恐れ、蔑視している。クローン人間を人間ではないと半ば見なしているからです。しかし、むしろ非人間とされる側にこそ人間性なるものがあり、逆に人間性に満ちているとされる外の人々や保護官の方が、人間性が失われている。その人間性を「いかさないで、処分しないで、離さないで」と呼びかけた題名なのだと、私は思います。
田中
私も同じような解釈をしました。

死者が生者に語る物語

小松
分析を進めてみます。小説全体はキャシーのモノローグになっている。いったい、キャシーはどこにいて、誰に対して語っているのか。この点がまだ解決されていません。キャシーはルースとトミーを見送った後、先述のノーフォーク、失くした物が流れ着く場所にひとり佇み、昔のことを思い出しながら小説は終わる。「行くべきところへ向かって出発しました」。これがキャシーの最後の言葉です。「行くべきところ」とはどこなのか。介護人の仕事を終え、最後に自分自身もドナーとなり、臓器を全て摘出される場所ですね。彼女は「使命完了」を迎える手術台の上に仰臥している。そこから自分の人生を振り返ってモノローグする形を、この小説はとっているのでしょう。ではキャシーは誰に対して語っているのか。自分自身の三一年間の「私」なるもの、決して離してはならない「私」に対して語っているのではないか。そしてその語りは、小説を読んでいる私たちの「私」にも向けられている。そういう誰もが離してはならない「私」に対して、キャシーは語っていたのだと思います。

付言すると、冒頭で触れた《高校教師》も、主人公である高校教師のモノローグからいつも始まります。「君は覚えているかい。あの頃から僕たちは徐々に、自分の存在を互いの心の中に見ることができたんだね」というように、「あの頃」という言葉を毎回使いながら、最後まで進行していく。しかし最終回のラスト近くで、「僕は今、本当の自分が何なのか、わかったような気がする」と、「今」という言葉が初めて登場します。つまり、このドラマは、最後に服毒心中をして、高校教師の意識が薄れていくその「今」から振り返った回想を、第一回目から私たちにずっと見せていたわけです。演出の吉田健は、《わたしを離さないで》でも、何かやってくれるはずです。
田中
私はキャシーについてこう考えます。なぜキャシーはルースと一緒にいつづけるのか。ドラマの美和は原作のルース顔負けの「嫌な女」で、恭子は振り回されっぱなしです。恭子を「愚かな女」とでもみなさないと、なぜ一緒にいつづけるのかよくわからない。では原作はどうか。もちろんキャシーは「愚かな女」ではありません。私には彼女は、いわば「NeverLetYouGo」の人に思われます。どれほど「無慈悲で、残酷な世界」に生を享けたとしても、それは彼女の生であり、ルースとトミーは共に生まれ育った友人であり、ヘールシャムは故郷です。いつかすべてが失われるとわかっていても、いやわかっているからこそ、離してはならない、離れ離れになってはならない。その意味で、小松さんの言われる「決して離してはならない「私」」の「私」とは、同時にルースでありトミーであり、ヘールシャムでもあるのです。もっともこの物語が語られる時点ではすべてはすでに失われています。しかしまた、だからこそ彼女は語るのでしょう。ルースとトミーが「いた」ことを、ヘールシャムが「あった」ことを、この世界とそこに生きる人びとが忘れ去っても、この「私」は決して忘れない。そのようにして彼女は失われたものすべてを記憶のうちに抱きしめ、弔い、それらとともに彼女自身も逝こうとする。いや、もう逝ってしまっているのかもしれない。そうなるとこの物語は夢幻能のように、死者が生者に語る物語ということになりますね。

またキャシーとの永訣を控えてトミーがこう言います。「どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついている。必死でしがみついてるんだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される。おれたちって、それと同じだろ?(中略)永遠に一緒ってわけにはいかん」。別れは必ずやってくる。離さないで欲しい。でも離れ離れにならざるを得ない。その定めの前で何をすればよいのか。何ができるのか。先にキャシーたちには逃げ場がなく、時間もなく、ゲームのルールも知らされていないと言いました。ですがそれは、彼らだけでなく、私たちの境遇でもあるのではないでしょうか。そこでの問いはこうです。「人間を導いてくれる超越的あるいは普遍的な拠り所が何もない世界で、死の定めと向き合いながら、なおも人間として生きることはどのようにすれば可能か」。私たちがキャシーに「人間性」を見出すのは、彼女がこうした問いに彼女なりの答えを出しているからなのかもしれません。

このことに関連して、映画公開時に『群像』に掲載された加藤典洋さんの評論が興味深いですね(「ヘールシャム・モナムール」)。彼は「三体のクローン」の物語として小説を論じます。そしてその際に一貫しているのは、彼らはクローンであるがゆえに「健常人」よりも劣った知性と感性しか与えられていないという前提です。そのため加藤さんの批評は、私には同じ小説を読んでいるのかと訝しくなるような内容でした。何が加藤さんにそういう読み方をさせたのか。この物語をくぐり抜けてなおクローンは人間未満であるという先入観が全く揺るがないのは驚きでした。

「救済者兄弟」の誕生

小松
私も加藤典洋さんの批評には驚きました。両性生殖か単為生殖かという以外には、クローン人間が基本的には通常の人間と変わらないことが理解されていない。また巷に溢れているDNA決定論への信仰が、加藤さんにも染み込んでいるのだと思います。確かにDNAは何かを伝えているわけですが、判明しているのはタンパク質の一次構造に過ぎない。親・子・孫の姿形がなぜ似るのか、アゲハ蝶が皆なぜ同様の美しい模様を有するのか、実は現在でもわからないわけです。加藤さんは、このような科学・技術に関する誤解や過信があるため、固定した回路が働き、ヘールシャムの保護官になってしまっている。これは原発に対する認識を含めて、団塊世代の批評によく見られる傾向ですよね。そもそも戦後の日本の復興政策が、ひいては黒船来航以来の政策が、科学技術の振興を基盤にした経済至上政策であり、現在の「バイオ」の猛進もその延長上にある。しかしこの点に対する批判や科学理論自体の検証がネグレクトされがちです。ですから加藤さんの場合も、クローンという言葉だけで思考が固定し、カズオ・イシグロのこれほどの作品を前にしても、筋違いの議論になっていると言わざるを得ない。
田中
ですが保護官たちでさえ、クローンたちを嫌悪し蔑視しながらも、必ずしも人間未満であるとはみなしていませんよね。その意味では、加藤さんの批評に象徴される科学技術への誤解や過信の問題は、想像以上に根深い構造的な問題なのかもしれませんね。
小松
最後の論点に移りましょう。既に議論に上がっていますが、作品全体を貫く軸になっている、臓器移植やバイオテクノロジー、先端医療について、どう考えるかという問題です。

小説が刊行された二〇〇五年から十年以上が経ち、「バイオ」の猛進の度合いは激しくなっています。例えば、日本では一九九七年に「臓器移植法」が制定され、それ以降十三年間で八一人の脳死者がドナーとなり、計三四五件の臓器移植が行なわれた。けれども、提供者をさらに増やすべく、また子どもの心臓移植を可能にすべく、二〇〇九年に法改定がなされた。そして一年後の「改定法」全面実施から現在までに、約二九〇人の脳死者から臓器提供が行なわれました。旧法の時は大体二ヶ月にひとり、新法では一週間にひとりの割合です。

想えば、小説の終盤で、ミス・エミリがキャシーとトミーに対してこう述べています。「あなた方の存在を知って少しは気がとがめても、それより自分の子供が、配偶者が、親が、友人が、癌や運動ニューロン病や心臓病で死なないことのほうが大事なのです。(中略)ここに世界があって、その世界は生徒の臓器提供を必要としている。そうであるかぎり、あなた方を普通の人間と見なそうとすることに抵抗があります」。現実にも私たちは、生きている脳不全患者を脳死者と呼び、普通の人間とは見まいとする傾向にある。ブルデューは『メディア批判』で、メディアは見せることによって隠すと言っています。一部見せることによって本質部分を見せない。あるいは見せたとしても、全く別の意味を帯びるような形で見せる。「教わっているようで、教わっていない」「教わっているけど通り一遍」なのです。現在の世の中全体がヘールシャム化しており、マスメディアの多くはその保護官を担っているように思われます。

クローン人間をつくってドナーにすることは、さすがにまだ実現していないでしょうが、それに近いことは行われてきました。ひとつは、一九九〇年代の半ばまで合法化されていたインドでの臓器売買に関連する事態です。二つある腎臓の一方を売ると約二十万円になり、家族が一年間生活できる額にあたるそうです。そこで父母が一個ずつ売った後は、子供の臓器を売る。子供も売ってしまうと、臓器を売るための子供をもうける場合があるのです。もうひとつは、現在進行形の事態で、「救済者兄弟」と呼ばれる子供がつくられていることです。既にいる子供に大きな疾患があって、臓器や組織の移植でしか助からないとされる場合、その子を助けるために救済者兄弟をもうける。アメリカでは、二〇〇〇年に最初の救済者兄弟が誕生し、法規制がないまま現在に至っています。フランスでは二〇〇四年に合法化されています。映画にもなったジョディ・ピコーの『私の中のあなた』は必ずしも架空の話ではなく、今紹介した子供たちはヘールシャムの生徒たちと同じです。

新しい倫理の立ち上げ

田中
バイオテクノロジーや先端医療技術の全体について言うと、木田元さんがかつて論文「技術の正体」で提示された視座が改めて重要だと思われます。木田さんは「人類の理性が科学を産み出し、その科学が技術を産み出したという、この順序に間違いはないのであろうか」と問い、「どうやら技術は理性などというものとは違った根源をもち、理性などよりももっと古い由来をもつものらしいのだから、理性などの手に負えるものではないと考えるべきなのである」と語っています。こうした視座に立つなら、「技術的に可能であり経済的に利益にもなる、けれども、しない」という論理と倫理を、いかにして作り上げてゆくかが重要な課題となるでしょう。それは規制をどうするとか社会的合意をどうするとかいったこととは全く次元の異なる課題です。

とはいえ、ことさら新しい課題だというわけでもありません。例えばすでに半世紀近く前、橘直矢さんは和田移植を批判した論文「生と死と麻酔医と」において、「人類の進歩というのも仮説以上のなにものでもない」として、誰かの生命の犠牲なしには進歩があり得ないなら、進歩の方をこそ断念すべきだと語っています。また論文ではロマン・ロランの戯曲『愛と死との戯れ』から「仮説の一つを躊躇なく信じるにしては、わしはあまりに科学者だ」という主人公の台詞が引用されてもいますが、ここからすると今日、科学技術の進歩についてくらい科学的ではない語られ方がしているものはない、とさえ言えるかもしれません。

さらに橘さんは、進歩のためであれ他の生命を救うためであれ、誰かの生命を犠牲にすることを峻拒する理由に、「死んでしまった人たちの死に際の心情は、永遠に不知のままである」ことを挙げます。「死を忘れるな」とはよく言われますが、橘さんが求めるのは「死者を忘れるな」ということであり、この二つは決して同じことではありません。バイオエシックスも死については饒舌ですが、死者についてはほとんど何も語らないのではないでしょうか。ここではこれ以上は展開できませんが、小松さんの問いかけに対して、私自身はこうしたところから考えていきたいと思っています。
小松
橘さんの論文公表と同じ一九六九年に、渡辺格さんが、ゴードン・テイラーの『人間に未来はあるか』を翻訳出版していますね。一九六〇年代後半の時点で、将来的に予想されるバイオテクノロジーを具体的に示し、警告と対策を呼びかけた本です。トップの分子生物学者である渡辺さんご自身が、分子生物学の未来に警鐘を鳴らしたわけです。それまでは、純粋研究である科学とその実践的応用である技術との間に人間が線を引いて、技術応用にどのような条件・歯止めをかけるかが問題とされていた。しかし、テイラーの主眼は、そうではない。つまり、新たな科学研究は技術に応用されるのは必然だから、スタートラインで科学研究自体を控えて凍結しなければならないということです。木田さんや橘さんの見解と同異両面がありますが、そういう視点からも、科学・技術を再考する必要がある。さらには、そもそも真理探究という意味での科学が、近年どれだけのことをなしてきたのか、冷静に省みる必要がある。大半の場合、技術的成果を見せられて、それを科学の成果だと思ってしまっている。この現実も再考しなければならない。

最後に、言い残したことがあれば、お願いします。
田中
小説に、ミス・エミリたちがヘールシャム運動の一環として「クローンたちにも魂があること」を世に知らしめ、彼らの待遇改善を図ろうとするエピソードがあります。あくまでも待遇改善であって臓器提供の中止ではないところに、ミス・エミリたちの「善意」の限界とおぞましさがうかがわれます。もっともミス・エミリたちにしても、自分たちなりに倫理的であろうとしてはいるのでしょう。ただその倫理は、いわゆる相互性の倫理でしかない。それはある「条件」をクリアしたと承認される「同等・平等な」存在の間で成立する倫理です。ミス・エミリたちの「善意」とは、この相互性の倫理の圏域のせめて外縁にクローンたちを位置づけようとすることにあるのでしょうが、まさにそのこと自体が、「魂があるという条件」の適不適を立証すべくクローンたちを査問するという仕掛けを作動させてしまう。ここに相互性の倫理の限界があると思います。そして「魂」を「意識」や「人格」に置き換えれば、これはバイオエシックスが「生命」「人間」「尊厳」を扱う仕方そのものでもあるでしょう。それゆえもう一つの重要な課題として、私たちはそのような相互性の倫理とは異なる倫理を作り上げてゆかなければなりません。

それにはどうすればよいのか。他の場所ですでに何度か論じていることですが、私自身はシモーヌ・ヴェイユの次のような視座に一つの手がかりを見出しています。彼女は『ルカによる福音書』の「善いサマリア人」についてこう述べます。「創造的な注意とは存在しないものに現実に注意を向けることである。道端に転がっている生気のない無名の肉体には人間性は存在しない。それでも立ち止まって見つめるサマリア人は、この不在の人間性に注意を向けているのである」。この創造的な注意は、先に見たような「魂」や「意識」「人格」の有無を査定するまなざしとは全く異なるものです。そこでは、相手が愛すべき存在だから愛するのではなく、愛することが相手を愛すべき存在にするのだというように、まなざしのコペルニクス的転回が果たされています。この新たな視座を深めていった先に、相互性の倫理を超えてゆく道が開けてくるのではないか。それが十年前にこの小説に出会い、どこか背中を押されるようにして歩いてきて、今私が立っている場所ですね。
小松
倫理の問題は、人間社会全体の欲望の問題と大きく関わっていることですよね。現在は、かつてとは違い、個人の欲望を無前提的に認める趨勢にある。ですから、アメリカ型の「自己決定権」が称揚されるわけです。社会はそういう方向に進んでいる。それに対して、あえて申したいことはひとつです。私の子供の頃までは、誰もが読み聞かせられていた物語がありました。例えばイソップの『犬と肉』や、『花咲かじいさん』『舌切り雀』といった昔話。何百年間も語り継がれてきながらも、今は廃れてしまった、欲望の増長を戒める話です。そうした物語を読み直すことが必要ではないか。換言すると、マダムの述べた「古い世界」の伝承が潰えたのが今なのです。その上でひと言、引用して終わります。映画版《わたしを離さないで》の最後の台詞です。「トミーを知っただけでも幸せだった 私は自分に問う 私たちと私たちが救った人々に違いが? 皆“終了”する “生”を理解することなく――命は尽きるのだ」。キャシーのこの遺言を私たちは離さないで、見つめていくべきだと思います。
この記事の中でご紹介した本
わたしを離さないで/早川書房
わたしを離さないで
著 者:カズオ・イシグロ
出版社:早川書房
以下のオンライン書店でご購入できます
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