在りし、在らまほしかりし三島由紀夫 書評|高橋 睦郎(平凡社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年2月3日 / 新聞掲載日:2017年2月3日(第3175号)

在りし、在らまほしかりし三島由紀夫 書評
誠実な観客として三島という
一幕物の芝居について語り続ける

在りし、在らまほしかりし三島由紀夫
出版社:平凡社
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一昨年は三島由紀夫歿後四十五年。四十五歳を自らの命の節目とした三島にとっては、あるいは歿後五十年、百年よりも意味深い年だったのかもしれない。本書のタイトルにもなっている「在りし、在らまほしかりし三島由紀夫」は、「国際三島由紀夫シンポジウム2015」における特別講演を活字化したものだ。こうしたシンポジウムの開催自体が評価の高さを示しているが、三島の場合は作品ばかりでなく、作家その人への関心が今なお尽きないのだろうと思われる。

四十五年の生涯は、しかし、人心を震撼せしめるには十分だった。とりわけ晩年のひたすら生き急いだかのような歩みは多くの者の頭に謎として纏わりつづけてきた。あの死にざまの過剰さは作品について何か重要なことを語っているはずではないか。

後の読者を悩ませるこの謎を解くのに高橋睦郎ほどふさわしい人間がいるだろうか。晩年の六年間を親しく接し、発表と同時にその作品を読み、かつ後輩として作家固有の心性に迫ることのできる存在。親しいがゆえの欲目、研究者としての鑚仰、同業者としてのライバル心が全くないわけではない。しかし、このどれ一つない評言などそもそも読むに値するだろうか。本書には、むしろこのすべてを兼ね備えているからこそ見出しうる三島像がある。

高橋はけっしてむやみに三島を偶像化したりはしない。「在らまほしかりし」とはすなわち、「在りし」三島が決して理想ではなかったことを示している。自分の詩集を見出し、次の詩集の跋文をも書いてくれた恩人ともいえる三島であるが、その作品、またその生き方に対しては一定の距離を保ち続ける。本書には、一九六七年以来の半世紀に亘る三島論が収められているが、この冷静な距離感はほぼ一定している。

高橋の三島像をあえて一言で言えば、「三島さんは『三島由紀夫が存在した』ということを残したい」人だったということになる。これは、三島の生き方と作品との双方を貫くものだろう。つまり、ただ語り継がれるだけでは飽き足らず、〈三島由紀夫とはこういう存在であった〉というかたちを明確にしておきたかったのだ。私の言葉で言えば、それは〈自己の人生の作品化=完結への欲望〉ということになる。

その意味で、三島が先に結末ありきで書く小説を、高橋は「ああ、「三島由紀夫」をやっちゃった」と言う。それは、集まった観客の前で幕を閉じなければならない戯曲の書き方だ。全体をまとめ上げる最後の台詞が帰途の客たちの耳の奥でいつまでも響きわたるのが望ましい。しかし観客と違って、読者はいつ読み終えても、ある部分を何度繰り返し読んでもかまわない。小説にとって終わりはそれほど重要ではない。少なくとも書いているときにどう終わるか作者自身がわかっている必要はない。人生がそうであるように。

しかし三島は人生そのものの作品化を目指した。つまりあらかじめ自分でコントロールできる結末が必要だった。それによって自分の人生そのものがいつまでも他者の頭に残り続けるような。そしてその芝居の観客の一人として高橋を選んだのだろう。その選びに溺れることなく、高橋は誠実な観客として三島という一幕物の芝居について語り続けている。 

高橋さんは覚えておいででないだろうが、実は私は四半世紀以上前にとあるバーで高橋さんから名刺をいただいている。ご自宅にもまねいていただいたが、卒論で三島を扱ったとはいえ何も他に書いたことのない院生の私に、詩人高橋さんの存在は眩しすぎて腰が引けてしまった。出会いを生かすためには、自分の側にそれに値するものがなければならないのだと、本書を読んでつくづくと思わされた。
この記事の中でご紹介した本
在りし、在らまほしかりし三島由紀夫/平凡社
在りし、在らまほしかりし三島由紀夫
著 者:高橋 睦郎
出版社:平凡社
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