美しい国への旅 書評|田中 慎弥(集英社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年2月10日 / 新聞掲載日:2017年2月10日(第3176号)

美しい国への旅 書評
この世界の姿にどこか似ている「美しい国」

美しい国への旅
出版社:集英社
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美しい国への旅(田中 慎弥)集英社
美しい国への旅
田中 慎弥
集英社
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「美しい国」と聞けばもちろん、現時点で日本を束ねているあの人が内閣官房長官だったころ、国民と共に目指したいと宣言した国家像が想起される。宣言から十年が過ぎ現実に彼が宰相となった今、そのユートピアが国民の現実とあまりにかけ離れた虚像のまま色褪せてきていることは疑う余地がない。

衝撃的な野心作である『宰相A』において、現在の日本とパラレルな位相に存在する歪な全体主義国家と、その国家を統率するために選ばれた「戦争こそ平和の基盤」と謳う「宰相A」の姿を諧謔たっぷりに描いてみせた田中慎弥。ふたたび、戦争が常態化した完全なるディストピアを現出させた。

豊かな緑も、水源も、人々の営みもが剥ぎ取られた世界は、「灰色の濁り」によってそのほとんどを覆われている。季節はとうに喪われ、よどみのなかを吹く風だけが残された自然(じねん)のもの。ただその風は濁りを清めるものではなく、濁りの堆積を移し替えるだけのものだ。

濁りの中心には、「大きな基地」が存在している。人類の歴史において圧倒的な脅威と破壊力を示してきた、「あの兵器」を有する基地だ。だが、方々で繰り返される戦争と「あの兵器」の使用によって世界は既に汚染され尽くし、兵器は事実上廃れて機能していない。ただひとり、名門政治一家の血を引く若き首相候補が、「あの兵器による負けを、あの兵器を持つことによって取り戻すのだ」と動き回り、基地の司令官に納まっていた。

やがて、政府も、軍も、基地を見捨てて他所へ移っていく。市街地には夜盗がはびこり、奪取や、蹂躙や、殺戮が横行する。もはや、テロや災害や、核の汚染といった事由に個々に対応できる世ではなくなっている。「以後」どころか、「以後」をいくつも経て完全に麻痺し、思考停止に陥った末世である。

国家の、いや、世界の、絶望の底の底から書き起こされる物語。そこで、ひとりの少年がズームアップされる。目の前で母を凌辱され、殺され、母に命じられた「仇討ち」のために基地を目指す「タイチ」だ。彼は、司令官を殺す使命にかられる女兵士「ハセガワ」と同道することになる。

……といっても、話はそう単純ではない。母を喪った少年と女兵士の間に生まれるのは傷を舐めあうような感傷的な絆ではなく、なぜこんな世界になってしまったのか、抗う意味と抗う対象を探り当てようとする少年と、もはや信じてはいないが祈る対象としてどこかに存在するはずの神を現出させるために司令官を消滅させようとする女兵士の、利害の一致による同盟関係なのだ。

後半、奇しくも母を襲った夜盗の一団によって少年が基地に送り込まれてから物語の様相が一変する。そこは、もはや人間とは呼び難い、あの「見た目は陰惨」な宰相Aをも凌ぐ化け物となり果てた司令官と、彼の性的欲求を満たすために集められた女たちが形づくる異様な場所だった。だが、マチズモの象徴である司令官は逆に女性たちによって征圧されつつあり、少年の身柄も彼女たちに拘束されて快楽と絶望を交互に与えられ続けることになる。

女兵士はジャンヌ・ダルクのようでもあり、基地には卑弥呼を彷彿させるカリスマ性を具えた女性も登場する。性が踏みにじられ、記憶や意味、信仰や祈り、愛といった人間を人間たらしめているものがことごとく奪われる非が尽くされてきた一方で、全体主義はその主体たる国家を喪失し、男性優位主義は逆転してイザナミがイザナギを追う構図が立ち現れる。そして最後に、世界を創生させる「神」を少年自らが起動させる。田中文学の核である「父(アダム)の不在」はそのままに、死んで非在となった母(イブ)の胎内に少年がふたたび回帰することで、世界は大きく胎動し、「以後」は神話「以前」にまで引き戻されるのだ。

スタートのやり直しであるリスタートでも、すべての設定を初期状態に戻すリセットでもなく、世界の電源は入ったまま、誤ったコードの積み重ねの連続性を断ったところまで引き戻すリブートが鮮やかに描かれる物語。それは、世界を掌握したはずの「司令官の最期(文芸誌初出の際のタイトル)」からはじまる世界。リブートの引き金となるブートストラップたる少年が創生させた「美しい国」の姿は、不思議なことに、この世界の姿にどこか似ている。
この記事の中でご紹介した本
美しい国への旅/集英社
美しい国への旅
著 者:田中 慎弥
出版社:集英社
「美しい国への旅」は以下からご購入できます
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