文学の歴史をどう書き直すのか 二〇世紀日本の小説・空間・メディア 書評|日比 嘉高(笠間書院)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年2月17日

〈枠組み〉のなかで思考する研究者の主体の問題を問う

文学の歴史をどう書き直すのか 二〇世紀日本の小説・空間・メディア
出版社:笠間書院
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文学が虚構であるという<しばり>は、読者たちに自由な想像力の行使を与える重要な案件であった。虚構であるからこそ、私たち読者は、それこそ気まま勝手に小説の叙述を散策し、堪能し、なお最後には忘れることもできた。読者はそこでは登場人物と同様に匿名性に満ちた他の存在になり替わることが可能なのであり、物語に如何なる<責任>を負うことなど考えなくてもいいのである。

だが、文学研究というのは厄介である。<研究>と名づけるからには、やはり何かを証明しなければならない。実証する対象が虚構であるという矛盾を抱え込みながら、文学研究は始まったと言ってよい。戦後に本格化する日本近代文学研究の70年足らずの歩みの中でも、<研究の方法>を模索する傾向は強く、何度も論争や討論が重ねられてきた。その結果として、それなりの作法や慣習は確立され、論文を書く上で、その基礎ルールをクリアーしていなければ、取り上げられもしないということになった。またテーマもその年代折々の流行り廃りがあり、我が研究室の書棚をざっと眺めまわしてもこの30年余りの研究書タイトルの変遷は、なかなか興味尽きない。かつては文学評論と切り分けられていた研究書は、現在ではそんな別があったとは想像できないほど多様化しているし、そもそも文学評論が同時代的な作家・作品を対象にして、研究書が主に文学史的に評価が確立した作家・作品を対象にするなどという<決め事>は雲散霧消してしまって過去の文言となっている(実際に卒業論文に現存作家を対象にしてはならないという暗黙のルールは私の学生時代には生きていた。もっとも私も指導教授もそれを無視したが)。

本書は、そうした文学研究に纏わるプロトコルを検証しながら、同時にそうした<枠組み>のなかで思考する研究者の主体の問題を問おうとしたものである。日比氏が最初に世に問うたのは、『<自己表象>の文学史』(2002年)であるが、そこで氏は膨大なデータ集積と分析を行い、一つの実証研究の型を提示したが、本書ではむしろ多角的な視点から文学研究にアプローチした論文を中心に、氏自身の文学研究の多様性を示したものである。二葉亭四迷、夏目漱石、梶井基次郎、横光利一、あるいは雑誌『太陽』や文展、スポーツなど、大学院のゼミや論集、研究雑誌に発表した折々の論文が収められている。まえがきで氏自身が「雑多といえば雑多だが、論の変遷や多方向性は、それ自体、私が「文学研究」を取り囲む<枠>と格闘し、もがいてきた軌跡」と述べている通り、方法をめぐる若き研究者の<奮闘記>という趣きをも兼ね備えて、楽しい。

日比氏が研究者としてスタートを切るのは1990年代後半であるが、この時期は世界的な規模において文学研究の方法がシフトチェンジした時期にあたる。68年にロラン・バルトによって提唱された「作者の死」はテクスト論への道を指し示した。このバルトに呼応してミシェル・フーコーは1969年2月のフランス哲学会の講演「作者とは何か?」で、テクスト言説の主体は何か、という問題を提示し、そこで作者とはいかなる機能、いかなる位置を示すかということを思考し、こう結論した。「だれが話そうとかまわないではないか」。言説の主体が話者や作者にあるという<思い込み>を否定し、テクスト自身の可変的で複雑な構造に眼を向けようとするバルトやフーコーの言葉に文学研究は多大な影響を受けた。同時にイギリスで同時期、テクストを取り巻く日常の文化的背景に眼を向けたカルチュラル・スタディズや、アメリカを中心に勃興したフェミニズム理論など、世界の知の構造は劇的な変化を遂げようとしていた。日本にあっては70年代に三好行雄、谷沢永一などが論争した方法論論争や、海外理論の吸収に伴う日本的研究との齟齬をめぐるやりとりなど、やはりこうした世界的な知の変換によって文学研究の方法論は変容せざるを得なかった。90年代日本ではそうした動向が混淆して、ある意味においては一種の安定的な時期を迎えたとも言える。勿論、文献学的な実証研究はより精緻さを増して存続したが、この時期に提示された問題系は今の文学研究の根幹的な部分を担っている。本書でも第一部を「言語と空間から考える」、第二部「文学作品と同時代言説を編み変える」、第三部「メディアが呼ぶ、イメージが呼ぶ」と表題が打たれ分類されているが、空間、編み変え、メディアという表象言語が論文の主たるテーマとして浮上していることがわかるし、身体やイメージをキータームに分析する方法についても、90年代にはそれを読解する読者が成立して、ともに言説編成の読み替えを行っていたことがわかる(ただ、本書ではジェンダーや、文化現象に取り巻く政治的背景へ、もう少し手を伸ばしてもらいたかった)。

それから既に20年を経たということに驚くばかりだが、筆者が提起した問題は未だ有効であることはいうまでもない。ここでとられた研究方法への信頼は続いている。だからこそ、日比氏も言うように、それをもある<枠内>での思考であるのではないかと疑うことが必要だ。規範化してはならないのだ。要は問題意識の切り取り方にある。こうした思考の往還によって<研究の方法>は発見され、改訂されていくのであろう。本書はそうした意識に支えられた若き日の筆者の熱意をたどるものとして、特にいま研究の緒に就こうとする若い人々に薦めたい。
この記事の中でご紹介した本
文学の歴史をどう書き直すのか 二〇世紀日本の小説・空間・メディア/笠間書院
文学の歴史をどう書き直すのか 二〇世紀日本の小説・空間・メディア
著 者:日比 嘉高
出版社:笠間書院
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年2月17日 新聞掲載(第3177号)
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