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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年6月30日 / 新聞掲載日:2016年7月1日(第3146号)

書評
◇精神世界の根源へ◇ 社会背景と体験を考慮に入れて読み解く


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王安憶は、若いころから中国共産党党員として抗日文学に携わっていた著名な文学者・茹志鵑(一九二五―一九九八)を母に、一九五四年南京に生まれ、上海で成長する。いわば、エリート共産党幹部の子弟である。そんな彼女が思い描いた理想的な共産主義という幻想は一九八九年の天安門事件によって終焉を迎える。この事件が本書で著者が王安憶の精神史の遍歴を分析し、解明する上での要衝のゲートへとつながっている。

本書は、一九八〇、九〇年代の王安憶の文学テクストを、その社会背景と筆者の体験を考慮に入れて、彼女の精神の歩みとして読み解いたものである。

本書のテクスト・クリティックに扱われる主要作品は、「小鮑荘」(一九八五)、「おじさんの物語」(一九九〇)、『紀実と虚構』(一九九三)、『長恨歌』(一九九五)、「ビルを愛して」(一九九六)、『富萍』(二〇〇〇)である。

「小鮑荘」では、「ルーツ探し(尋根)文学」として社会的には高く評価されたが、農村を書くことは、王自身のルーツ(アイデンティティ)探索においては他者でしかないこと。

八九年「天安門」後に、書くことの葛藤を経て発表した「おじさんの物語」では、社会改革への貢献を義務づけられた「おじさん」に代表される旧世代の知識人作家の欺瞞と反発を描きながらも、「私」もすでに作家として「真実のものを虚偽の存在に変え、しばらくそこに佇み、虚偽の存在を再び別の真実に変える」生活を身につけていたとして、体制側に同化して「書くこと」への不信感を示すこと。


『紀実と虚構』では、物語の展開に都合のよい「紀実」を探し出し、ねじ曲げた「家族神話」を構成する小説でも、自身の自伝的要素も強く反映させた成長物語が語った「紀実」(事実の記述)として描かれた小説でも、ともに「文学の権力」が潜んでおり、後者はそれが隠蔽されているにすぎないこと。

『長恨歌』では、一九四〇年代から八〇年代までの上海を生きた女性の典型として、主人公・王〓瑶の一生が描かれる。王安憶の上海の原風景としての「弄堂」の生活描写であり、「生計」に支えられた「生活の美学」を描き出す一方、「老上海」ブームに警鐘を鳴らす悲惨な末期を導き出していること。

「ビルを愛して」は、「現代化」に伴いグローバル化する中国・上海に生きる者が、自己アイデンティティを如何に確立するかという問題意識の下で、「西洋」を自己のアイデンティティに同化してしまった主人公、上海の女性芸術家・阿三を「罪」に陥れ、厳しく突き放していること。

『富萍』では、上海人の憧れである旧フランス租界淮海路の「弄堂」の生活にではなく、従来の王安憶テクストにおいて不安要素を表す記号でしかなかった上海郊外の風景や生活が、豊かな実りを生み出す地として描かれ、主人公・富萍の自活し清貧に生活する生き様に、王安憶は上海のユートピアを描き出していること。


以上、本書に示される読みである。
王安憶は、「ルーツ探し」の念頭においたのは、「民族」や「伝統」や「中国人」のアイデンティティではなく、「自分の命のルーツとアイデンティティを探求すること」であったことが、彼女にとっての文学に描く精神世界の根源なのであろう。この中特に、『長恨歌』から『富萍』への解読は、王安憶の生活と精神の原型である「上海」を通して、作家としてのアイデンティティの遍歴があったことを確信できる分析である。本書は、筆者がついつい『長恨歌』のDVDと飯塚容・宮入いずみ訳『富萍』(勉誠出版)を買ってしまい、王安憶の経験した精神の葛藤を味わいたいと思わせるほどの一書に仕上がっている。
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