闇夜におまえを思ってもどうにもならない ウェンジャーヤオ村の風景 書評|曹乃謙(論創社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2017年2月24日 / 新聞掲載日:2017年2月24日(第3178号)

闇夜におまえを思ってもどうにもならない ウェンジャーヤオ村の風景 書評
人間の根源的な欲求に肉薄
素朴で正直な農民たちの生きざまにいつしか憧憬の想いすら抱く

闇夜におまえを思ってもどうにもならない ウェンジャーヤオ村の風景
出版社:論創社
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人間の生存に関わる根源的な欲求として食欲、性欲、睡眠欲の三大欲があるとされている。だが本書に登場する人びとは、貧窮のどん底に置かれ、生存すら脅かされている人びとである。彼らには仏教の世界で言われる「五欲」の名欲や財欲などは持ちようもなく食欲、性欲にさえ飢餓状況に置かれている。

小説の舞台は中国山西省北部にある三〇世帯、人口二百人弱の「温家窰」という小さな村で、時代は文化大革命末期の一九七三~四年頃である。五〇人ほどの村人が三〇篇のいずれか一篇で中心人物として登場し、やがては「温家窰」村の「風景」が見渡せる仕掛けになっている。その風景は文革期、農民はこれほどまでに貧しかったのかと衝撃的でさえある。ただ文革期を時代背景としなくても、この小説は成立しただろう。なぜなら作者は人間の根源的な欲求に肉薄することで、その真の姿を捉えようとしているからである。

読者の眼前に広がる世界は土と動物とともに生きる常に空腹な農民たちであり、性欲を満たすことへの激しい、祈りにも近い願望と飽くなき成就への飢餓感である。作者の曹乃謙はもっとも関心ある創作テーマについて問われた際、“食欲と性欲という、人類が生存する上で欠くことのできない二つの欲望”と答えているが、おそらくこの作家の信念にも近い想いに違いない。

とにかく貧しいのだ。餓死を免れるぎりぎりの生活を強いられる村民の常食は燕麦やトウモロコシを粉にした薄粥やうどんで、ジャガイモのほか野生の植物も貴重な食料となり、肉はめったに食べられない。この村の男はほとんどが結婚できない。嫁をもらう金がないからで、兄弟で一人の女房を共有することさえ生物学的欲求を充足させるすばらしい方法となり、自分の息子に娘を千元で嫁入りさせた親戚の男やもめに自分の女房を貸し与えたりもするのである。ただし著者はこの小説の最終話に女房を共有する家族の子どもにあまりにも哀しい、しかしこの村の誰もが相手を気遣い、心優しい人間たちであることを証明する悲劇的な結末を用意している。

とはいえ作品の色合いは決して暗くない。唄物語風の味わいが横溢し、大人の童話とも言える作品となっているからである。「乞食節」「煩わし節」などと呼ばれる山西省北部一帯で馴染まれている民謡が頻繁に登場するだけでなく、音楽用語ではオスティナートと呼ばれる、一フレーズが繰り返し書き込まれ、いつしか音楽的でリズミカルな文章世界を生みだしている。

本書の刊行は二〇〇七年である。その三年後にはGDPで世界第二位となる中国だけに、このような小説に多くの中国人は現実味を失い、目を背けたかもしれない。だが飢えと貧困は人間をより自然の営みや森羅万象に寄り添うようにさせるようで、この村の人びとは心の赴くままにその身を任せながら、地球がもたらす大自然の営みと共に生きている。村人の生活はあまりにも貧しい。しかしその素朴で正直な「温家窰」村の農民たちの生きざまに、いつしか憧憬の想いすら抱くのは私だけなのだろうか。(杉本万里子訳)
この記事の中でご紹介した本
闇夜におまえを思ってもどうにもならない ウェンジャーヤオ村の風景/論創社
闇夜におまえを思ってもどうにもならない ウェンジャーヤオ村の風景
著 者:曹乃謙
出版社:論創社
以下のオンライン書店でご購入できます
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