1980年代 書評|斎藤 美奈子 成田 龍一(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年7月8日 / 新聞掲載日:2016年7月8日(第3147号)

1980年代 書評
歴史を振り返る良い刺激に 新の「失われた時代」とは

1980年代
出版社:河出書房新社
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宮崎駿の息子・悟朗が監督した映画『コクリコ坂から』(二〇一一)は一九六三年を舞台にしているが、そのパンフレットに、出演声優のコメントとして<日本人がまだ貧しく、何もなかった時代>という意味の事が書いてあって、のけぞった事がある。

一九六三年といえば、高度経済成長のピーク前夜である。日本社会の中流層の安定性や将来不安の有無を考えても、むしろいまより豊かといえよう。

これは、過去の時代を振り返る時「まだ××がなかった時代」というキャッチフレーズが、一見わかりやすく作用してしまう事の弊害ではないだろうか。一九五〇年代を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』のキャッチコピーには「まだ携帯電話がなかった」時代である事が触れられていたが、それなら、実はバブル前夜およびバブル前期である一九八〇年代も入ってしまうのである。八〇年代に携帯電話は存在していたが、庶民の通話手段としての普及はまだまだ二十年は先の事だ。

もとより「まだ××がなかった時代」という言葉を発する側が、アピールする先として設定している若年層にとって、生まれる前の時間は、一律「昔」でしかない。そして今より昔という事は、その分「年寄りもみんな若くて元気な時代だった」という全部一緒のフォルダに入れられてしまう。

過去に遡って、今には「ない」ものを捜すより、今「ある」ものがいつから始まったのかを検討する方が、歴史の中の「錯綜」が見えやすいのではないだろうか。

斎藤美奈子と成田龍一の編著となる本書は、一九八〇年代に、人々のものの捉え方が「美的になった」と指摘している。衣食住を確保する切実さから遊離し、感覚的なものをベースにする時代の始まりは、九〇年代以降現在に至って、多様さを増していくばかりの「ツール」を利用していく基底を掘り起こしている。

同時に、八〇年代は「原発の安全神話に対する問題意識がさまざまなアプローチで表現された時期」である事も触れられる。一方で「四畳半フォーク」から脱したユーミン(松任谷由実)の歌が似合う時代になりながら、暮らしの足元への不安もまた、かきたてられ始めた時代でもあったのだ。

また歴史的観点から見れば、一九八〇年代が歴史教科書問題の「起点」と認識できる事や、首相の無自覚な日米同盟依存に象徴される対米従属の内面化も指摘されている。あるいは、本書では不思議とあまり比重が置かれていないが、七二年の連合赤軍事件が何だったのかを含め、社会主義の行き詰まりをどう乗り越えるのかも、「あの戦争」をどう捉えるのかと同じくらい、八九年の東西冷戦体制崩壊や天皇崩御を前にして、さかんに論議されていたはずだ。

このように「一九八〇年代」は、そこだけ区切られて存在していない。
また、八〇年代は「一億総中流時代」の安定感がベースにあるがゆえ、大きな事件はあっても、一般庶民にとっては窓の外の景色のように流れてしまえる時代でもあった。起伏のある実感に乏しく、七〇年代までのような、新旧のモードがはっきり断絶していた時代でもない代わりに、まだ九〇年代以降ほどは物事が多様なわけでもない。

だからあまりハッキリした記憶がなく、語られにくいともいえる。八〇年代に比べた景気の悪さもあって「九〇年代」が「失われた時代」呼ばわりされる事が多いが、実は「八〇年代」こそが「失われた時代」だったのではないか?……という本書の発言者・大澤真幸の指摘にも頷けるものがある。

様々な寄稿の中で、最も筆者の目を引いたのは、畑中三応子による「フード」の項目だった。ここには、グルメという新しい選択肢の広がりと、古くからある大衆食堂の価値を「再発見」する流れが、八〇年代には同時に存在している事が、自覚的に捉えられていたからだ。

それに比べれば、ジェンダーレスの問題や、文化のデパートメント化現象を取り出す事に結論部を置いている「オタク」「現代思想」の項目は、同時代を経験した筆者としては、やや食い足りないものを感じた。

後者で取り上げられている『別冊宝島 現代思想・入門』執筆者の一人である竹田青嗣による「現象学的還元」は、文化のデパートメント化現象につながる価値相対主義に対しての批判的視座と共に語られていたが、それは単なる共同体回帰とも異なり「物事をありのままに見るには、どうしたらいいのか」というアプローチであったはずだ。

また本書では、岸田秀の『唯幻論』が、「社会を精神分析の対象にしている」事でもって、精神分析が専門である斎藤環から批判されている。

そこも『唯幻論』の大きな特徴であることはたしかだが、当時十代の読者であった自分にとって、一番肝心なのは、「すべては幻想である」と突き付けられた事であった。

昨日までと、自分がまるで違う場所に立っているような気にさせられたこの読書体験は、現実は常に誰かの作った物語であり、その物語と物語の間の亀裂にのみ、ありのままの認識がかいま見える……という認識に結びついた。

物語を紡ぐ事と、ほどく事。それを「同時に」行う事こそ、筆者が八〇年代に得た認識の地平であった。

とまれ、本書の存在が、「八〇年代とはなんだったのか」を振り返る良い刺激剤になった事は確かである。
この記事の中でご紹介した本
1980年代/河出書房新社
1980年代
著 者:斎藤 美奈子 成田 龍一
出版社:河出書房新社
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