おばちゃんたちのいるところ 書評|松田 青子(中央公論新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2017年3月3日 / 新聞掲載日:2017年3月3日(第3179号)

おばちゃんたちのいるところ 書評
死によって解放されたこの世の決まりごとを客観視する

おばちゃんたちのいるところ
出版社:中央公論新社
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痛快、という言葉が読後に最初に浮かんだのだが、この連作短編集は、主要人物が死んでしまった人たちである。死んでしまっても、また蘇ってくる人たち、つまりお化けなのである。各短編には、下敷きとなる物語がある。『娘道成寺』や『牡丹灯籠』など、歌舞伎や落語、民話の形で長い間語り継がれてきた作品である。当然違う時代背景の違う人がその物語を享受して、楽しみ、後世へと伝えてきたわけである。もはや遺伝子レベルでお化けが好きなのだとしか思えない。

松田さんは、これらの物語をただリメイクするのではなく、必ず現代ならではの批評を込める。前作『ワイルドフラワーの一年』(河出書房新社)では、現代社会で固定化された概念による常套句などをもじりながらジェンダーの問題に切り込んでいた。そこではおおむね散文詩に近い形で書かれていたが、『おばちゃんたちのいるところ』では、同様に明確な批評性を含みつつ、物語のふくらみとともに表出されている。

たとえば「娘道成寺」を下敷きにした「みがきをかける」では、好きになった男を追いかけるためにへびになって鐘にとり憑いた清姫と、失恋がきっかけで永久脱毛をはじめる「私」とが対比されている。対比のきっかけは、親戚の「おばちゃん」である。大阪弁でエネルギッシュにまくしたてるおばちゃんは、すでに死んでいる。お化けとなって「私」に「あんた、毛の力をみすみす手放すんか。(中略)つまらん男にフラれたくらいで、急に牙抜かれたみたいにならんと、清姫みたいにがんばってほしいねん。毛の力はあんたのパワーやで」と、不条理に、力強く、励ます。その言葉をきっかけに意識が変わり、銭湯で悲しみや悔しさやむなしさが放出される象徴として「真っ黒の毛」が生えてくる場面は、とても奇妙なのに、とても感動的である。

現代を生きる「私」の開放は、昔話の時代に抑圧されていた女性が、怨念をエネルギーとして解放されていくことと響き合う。自ら若く美しい身体を手放し、蛇となることで想いを全うした清姫。そのとき、まぎれもなく、自分だけの心と身体が一致したともいえる。幽霊のおばちゃんの「清姫かっこ良かったなあ」というつぶやきに納得する。 

身体はいつかなくなるからきれい、きれいになれる、心配ナイね 

これは、精神的に追いつめられていたときに作った短歌である。死んだら生きている間の醜さも消えるから「心配ナイ」と自分に言い聞かせている。全くなんの根拠もない。しかし、いったん身体をリセットすることで、今充満しているわけのわからないものもリセットできるのではないかと自問自答した遠い昔の自分を、松田さんの構築する物語を読みながら思い出していた。

「子育て幽霊」も「八百屋お七」も「皿屋敷」のお菊さんも、酷い死に方をした特殊な人物だが、その胸に生じた感情には普遍性がある。男に裏切られて悲しむ。突然別れを告げられて自分の全存在を否定されたようで死にたくなる。このよくある、しかし激しい感情に対して、ナゼデスカ? とお化けの視点から疑問を投げかける。そこに生じるユーモアが新鮮な答を引き出す。死を考えることは、生を考えること。そして死によって開放されたこの世の決まりごとを客観視することである。その客観描写の言語センスに痺れまくった一冊だった。
この記事の中でご紹介した本
おばちゃんたちのいるところ/中央公論新社
おばちゃんたちのいるところ
著 者:松田 青子
出版社:中央公論新社
以下のオンライン書店でご購入できます
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