山野浩一氏追悼パネル 電子版限定(1)

参加者:荒巻義雄(作家)、増田まもる(翻訳家)、巽孝之(慶應義塾大学教授、SF評論家)
司会・本文構成:岡和田晃

第56回日本SF大会(ドンブラコンLL) 於:静岡コンベンションアーツセンター・グランシップ

●1:山野浩一の逝去、それに至るまでの経過

 岡和田晃 今回は山野浩一さんの生前、ご縁のあった方々に、在りし日の思い出について聴かせていただければと思います。巽孝之さん。慶應義塾大学教授で、SF評論家・アメリカ文学者としても精力的に仕事をなさっています。荒巻義雄さん。作家、山野浩一さんとの論争で知られていますが、日本にニューウェーヴを根付かせた同志という側面もあります。

 増田まもるさん。翻訳家ですが、オルタナティヴ・マガジン「NW-SF」(NW-SF社)でデビュー、サンリオSF文庫(サンリオ)で単独の訳書を出すなど、出発点として山野浩一さんの強い影響を受けてこられました。

 私、岡和田晃と申します。司会ですが発言もします(会場笑)。「SFマガジン」(早川書房)の2017年10月号(早川書房)に、急遽、編集部から依頼を受けまして、「ニューウェーヴは終わらない 山野浩一を追悼する」を書かせていただきます。こちらの追悼文には、今まで山野浩一さんについて、あまり知られていなかったことがかなり判明してきまして、そのあたりについて触れています。少しずつ山野浩一さんの評論集(『山野浩一全時評(仮)』、東京創元社)を作っておりまして、ご病気が判明してから、なんとかお元気のうちに出したいと思っておりましたが、力及ばず、間に合いませんでした。

 晩年の山野さんは、奥さま(山野みどりさん)の介護生活をしておられました。SFのイベントにも、みどりさんをデイサービスに預けたときにしか出てこられない状態でした。それでも時間を作って、2010年の日本SF大会(TOKON10)のパネルにも出演いただいています。ここのお三方も出てらっしゃいましたね(「SF新人賞&小松左京賞作家『21世紀SF』を考える」、「東京SF大全をふまえてSF評論の意義を問い直す」)。

 山野さんは、2017年の2月にみどりさんの還暦のパーティに出席なさいました。書評家の豊崎由美さんも出席しておられました。二次会のカラオケでユーミンの曲を歌うなど、終始ご機嫌でした。

 ところが2月の終わりにがん検診でステージ3という診断が下り、4月にはステージ4にまで進みました。5月には、『J・G・バラード短編全集3』(東京創元社)に寄せた特別解説「内宇宙の造園師」を発表されたのですが、残念ながら、こちらが最後のお仕事になってしまいました。6月に、私と作家の樺山三英さんが蔵書整理をお手伝いし、日本SF作家クラブから、藤井太洋さん・YOUCHANさん・宮内悠介さんもお見舞いに行かれました。

 山野さんには、未収録の小説が本一冊ぶんくらいあります。山野さんは、自分で積極的に本を作るという「欲」が薄い方でした。そこで、私が音頭をとるかたちで、日本SF作家クラブ公認ネットマガジン「SF Prologue Wave」で未発表作品を公開しています(http://prologuewave.com/archives/tag/%E5%B1%B1%E9%87%8E%E6%B5%A9%E4%B8%80%E6%9C%AA%E5%8F%8E%E9%8C%B2%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E9%9B%86)。私自身、亡くなる一週間前まで、山野さんとオンラインで公開のやりとりとか、非公開で評論集の内容などを話していました。増田まもるさんも、7月16日に、八王子のご自宅へお見舞いにうかがったと聞きます。その4日後に亡くなってしまわれました。

 山野さんは活動範囲が非常に広い方で、競馬評論家としては、近代競馬のフォーマットを作ったという自負もお持ちだったようです。今回のパネルの一次資料としては、自筆年譜‘(http://koichiyamano.blog.fc2.com/blog-category-2.html)を使います。1939年から80年まで。本当は「To be Continued」とあるので、続けるつもりがあったのでしょうが……。補足しておきますと、ハヤカワ・SF・シリーズ版の『鳥はいまどこを飛ぶか』(1971年、早川書房)の最後にも、先駆けて自筆年譜が載っています(1945~71年まで)。機会があれば読み比べていただければ。


●2:デビュー前から、1960年代までの山野浩一

 岡和田 山野さんは、1939年大阪市生まれ。戦争を経験されています。ご本人によれば、高校時代は「不良」でした。住吉高校の卒業生で、眉村卓さん・堺屋太一さんが先輩になるそうです。ヘミングウェイ、カフカ、ドストエフスキーを当時は愛読していましたが、どちらかといえば遊び人だったと。

 1957年に初めて原稿料をもらった文筆仕事は、「スポーツニッポン」関西版での投稿映画評。ジョン・フォードの「ミスタア・ロバーツ」を論じたそうです。

 内容を読んでみたいと国会図書館のマイクロフィルムを漁っていますが、まだ出てきません。弟さんも、「ミスタア・ロバーツ」について書いていたというのは記憶しておられ、原稿が存在するのは間違いないようなのですが、そもそも「ミスタア・ロバーツ」が封切られたのは、この年ではないようで……。

 そう、山野さんは映画青年だったのです。私は遺品整理をお手伝いしており、その際に見つかった自筆のノートを回覧します(会場どよめく)。年間80から150本、ぜんぶ劇場で見られていて、点数をつけて分類している。「NW-SF」の随所に見られるお遊びランキングなども、そういうところから来ているのかなと。

 競馬の仕事も、血統事典のもとになるような、手書きの詳細な血統リストを作っておられました。すごいですね。映画ノートには「世界の映画」、というリストもあり、このあたり、サンリオSF文庫で世界文学を紹介する下地になっていたとも言えるでしょう。

 映画好きが高じ、1960年、関西学院大学の映画研究会で、「デルタ」という監督をされています。デルタは16ミリフィルムなので、閲覧できる場所限られていますが、神戸市映画資料館にはリマスター版が架蔵されていますので、必要な手続きを経れば、観せてもらうことが可能です。架蔵については、SF映画の研究をされている高槻真樹さんに調べていただいて、わかったことです。『アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブズ』(河出書房新社、2001年)という本に、松田政男さんの紹介が載っています。

「デルタ」は、ジャズが全編にフィーチャーされている映画で、当人に取材したところでは、ルイ・マル『死刑台のエレベーター』の影響があるそうです。「日本読書新聞」1961年11月27日号で、映画評論家の佐藤重臣さん――通称「アングラのジューシン」――に高く評価されます。その流れで、盟友・寺山修司さんなんかとも知り合われたわけです。

 その後、映画の助監督を3本ほどおやりになりました。『人形劇 こがね丸シリーズ』の脚本を手がけてらっしゃいます。あと、「少年キング」の連載「戦え! オスパー」。これはソフト化されていないのですが、『海のトリトン』と設定がよく似ています。

「戦え! オスパー」は1965年なので、すでに「宇宙塵」に書いていたときの仕事ですね。山野さんは、1963年の11月に「宇宙塵」の会員になっていたようです。その後すぐに、64年に寺山に勧められて「受付の靴下」という戯曲と、「X電車で行こう」という小説を書きます。「受付の靴下」は、早川書房の「悲劇喜劇」という雑誌に載ります(1964年3月号)。ほぼ同時期に「X電車」は、「宇宙塵」に載ったわけです(1964年2月号)。2回分割で載ります。上が出たあとに、三島由紀夫が面白いというはがきを柴野拓美さんに送り、それを柴野さんが「宇宙塵」のあとがきで紹介したという経緯があります。

 三島由紀夫のお墨付きが出て、これでようやくSFが文学としてみとめられたんだと書くと、伊藤典夫さんが、そんな「文学として認められた」と喜んでいていいのか、という反論がある、といった微笑ましいやりとりも、時代を感じさせる流れになっています。

 このあたりで、山野さんは「宇宙塵」にいくつも作品を書いています。だいたいは、『X電車で行こう』(新書館、 1965年)に入っていますが、載っていない作品もあります。例えば、「ギターと宇宙船」(「宇宙塵」1965年11月号)。設定考証が科学的におかしいと、読者から指摘を受けた作品です。そうした経緯も手伝ったのか、いわゆるハードSF的なお約束に、山野さんは批判的な思いがあったようですね。

『山野浩一傑作集 殺人者の空』(創元SF文庫、2011年)に「開放時間」という作品が入っています。「宇宙塵」に掲載された、小説としては最後の作品になります(1966年4~6月号)。これは山野さんにとっての「本格SFをやれ」への回答で、これを書くことで一つのけじめをつけのではないかな、と私などは思っております。

 一方、この時期というのは、「宇宙塵」に筒井康隆さんの『幻想の未来』が連載されたときで(単行本は南北社、1968年)、座談会では山野さんだけが『幻想の未来』を褒めていて、立ち位置が非常にわかりやすくもあります(「宇宙塵」1964年10月号)。日下三蔵さんは、いま『幻想の未来』の評価が定着している段階で山野さん以外は酷評という座談会を採録するのはアンフェアだと思っておられ、それで『筒井康隆コレクションⅠ 48億の妄想』(出版芸術社、2014年)には、あの座談会はあえて入れなかったそうです。


●3:山野×荒巻論争再検討、EZOCONⅠ

 岡和田 そして、1966年10月からSF時評を始めます。これはですね、「日本読書新聞」という書評紙で連載をしていたものです。論争的だとささやれていましたが、実際に目を通すとそうでもなくて、後の「読書人」の連載のイメージで言われているのかな、といった感じです。月刊の時評というわけでもなく、一年ほど連載し、半年ほど間があいて、光瀬龍さんに担当が変わっています。

 この年の6月、「別のSF論――狂気の文学へ突入せよ!」を、「SF新聞」2号に寄稿します。これはシュルレアリスムをもSFに取り込もうとする批評で、いわゆる山野・荒巻論争の発端になった論文と言われます。「SF新聞」の3号には、荒巻さんの批判「別のSF論批判・科学的合理化について」という反論が載りました。
こうした流れが、「SFマガジン」の「日本SFと原点と指向」(1969年6月号)につながります。巽さんが編纂された『日本SF論争史』(勁草書房、2000年)にも収録されていて、それで今でも読まれていると思いますが、その前哨戦ともいうべき批評です。そのあたりに、山野さんと荒巻さんの論争ですが、せっかく当事者がいらっしゃいますので、振り返っていただければと思います。

 荒巻義雄 いやあ、忘れちゃった(会場笑)。「荒巻邦夫」名義で書いているんだね、これ。僕の生れたときの名前で、芥川龍之介と同じで姓名判断で早死にすると言われたから、変えたんだね。でも、僕と山野さんは論争したけど、仲は良かったんですよ。

 岡和田 巽さんの『日本SF論争史』の巻末に、牧眞司さんが論争の年表を作っておられて。ネットのない時代にもこういう丁々発止のやりとりが行われているんだと思うと、私などは非常に心強くなりました(会場爆笑)。ただ、同じような議論を繰り返さないためにも、論争を残しておくのは大事だなと思います。

 荒巻 論争というのは頭を鍛えるんですね。思考力を磨くのです。

 岡和田 1973年の日本SF大会(EZOCONⅠ)の写真を、柏谷祐子さんという方からいただいています。この大会では、プロが3人しか参加しなかったんですね。山野さん、荒巻さん、筒井康隆さん。

 荒巻 これはね、飛行機が飛ばなかった。それで、前の日に来てくれた人しか参加できなかった。思い出はいっぱいあるけど、筒井さんの印象の方が強いね。

 岡和田 そうですか。でも、山野さんはこのときのSF大会は大変楽しかったようで、「エゾコンよ、永遠に。エゾコンティニュー」という文章も書いています。パンフレットの写真は、安田圭一さんに提供してもらったのですが。

 荒巻 僕はこのときに、「白壁の文字は夕陽に映える」で星雲賞をもらったんですよ。

 巽孝之 「山野×荒巻論争」の意義を簡単に言ってしまうと、山野さんの主張は、「それまでの日本SFは、アメリカSFの建て売り住宅」というもの。それに対して荒巻さんは、どちらかといえば、日本作家を弁護する立場を採られました。そのなかでは、特にニューウェーヴとかバラードとかが強調されるわけではないんですけど……。

 非常に面白いのは、先ほどの荒巻パネルでは、荒巻さんの描く人物像が記号的だ、という話が出たんですけど、私が思い出すのは、「日本SF原点と指向」は、サイエンス・フィクションとかスペキュレイティヴ・フィクションとは言わず、そのまま「SF」になっている。荒巻さんは、そこでいう「SF」とは何なのかと、定義を追求するわけで。どちらかというと山野さんの方が記号論的な感じで、荒巻さんの方が意味とか概念を追求する形の論争だったのですけど。

 これが「宇宙塵」に飛び火したときに――というのも、荒巻さんの反論は「宇宙塵」に載ったからなのですが――なかなか建設的な方向に行ったと思うのですけど……途中で平井和正さんが「特別手記」を寄せたり、面白い方がいろいろと介入されていて。当時は柴野拓美さんをも含めて、どちらかといえば、荒巻さんの論調に賛意を表明する人が多かった印象があります。


●4:福島正実と山野浩一

 荒巻 流れとしては、覆面座談会(匿名座談会)事件が前提にあるのです。それはつまり、福島(正実)さんが仕掛けている部分があって、その流れのなかで「日本SFの原点と指向」が出てきたと読まないと。僕はね、個人的な意見なんだけど、どうも山野さんの意志でないような気がするんだよなあ、「原点と指向」は。だってね、筒井さんなんかとすごく経歴が似ているわけですよ、あの人も演劇やっているわけだから。それなのに、なんでこういう形になるのかなあと。

 岡和田 福島正実と山野浩一は、やはり複雑な関係があったんじゃないかと思われます。なぜかというと、福島は「X電車で行こう」を掲載してから、山野さんは小説を載せていません。その後も、山野さんは小説を持ち込んでいるわけです。『山野浩一傑作選』に入っている「首刈り」は、ずっと預けていたもののしまわれていて、二代目の森優編集長時代に載りました。でも、福島さんに評論は認められたと、山野さんご本人も年譜に書いています。

 荒巻 僕は福島さんに会っているんですよね。自宅にもお線香を上げに行きましたけど。なんか、ちょっと独特の癖のある方でしたね、福島さんは。当時、原稿用紙1枚400円なんですよ。1文字1円なので、平井さんなんかよくボヤいていましたが、それでは生活できないんですよ。僕なんか会社をやっていたからよいものの、作家にしてみれば生活するわけだから。早川から出なければならなかった、経済的・具体的な状況があったんですよね。

 そこで、早川から離れて中間小説へ出ていくという流れがあったんで、それに対して、子飼いに手を噛まれたような思いが福島さんにあったのかなあと。一度しか福島さんに会っていないので、個人的な考えですが。早川で原稿書くときは、1文字点を打ったりマルをこちらに移したりして20字増やすと、「あ、20円儲かったな」なんて(会場笑)。早川の人って、ぜんぶ字を1字1字数えて400で割って原稿料を払うという、すごくシビアな会社だったんですね、あそこはね(岡和田注:当時)。

 どうもなんか、「日本SFと原点と指向」は、山野さんの本意ではなかったような気がするな。僕、山野さんとはけっこう仲良いんですよね。論敵にして戦友という感じだったんですけど。一番わかるのは、講談社で出した『時の葦舟』の解説を中井英夫さんに依頼が行ったらしいのだけど、中井さん、僕のことすごく否定的に書いたらしい。僕は「いや、載せていいよ」と言ったんだけど、宇山(=日出臣)さんが山野さんに書かせて。
いや、まったく僕のことをわかっている。お互いがお互いについてわかっている。立場的に作家としての地位が固まっていないのですが、そういう気を使っているようなところもありますね。

 岡和田 いや、山野さんは「読書人」の時評で、一貫して荒巻さんを高く評価していますよ。

 荒巻 いちどどっかのホテルの出入り口で山野さんに会って。彼はすでにプロ・デビューしていて、僕は一ファンだったんだけど、そういうときに、暗い顔をしていた。しばらくしたら、明るく社交的になっていた、という内容で(会場笑)。非常に僕が辛い時期だったんですよね。会社のアレでもって辛い時期で。そういう時期のことが解説には書かれています。『定本荒巻義雄メタSF全集 第5巻』(彩流社、2015年)にも収録させてもらいましたが。思い出しましたが、後に、山野さんは、当時の奥さんに関する相談で札幌のうちに来たことがあるんですよね。


●5:「わが財力の勝利である。バンザーイ!」

 岡和田 そうそう、山野さんの漫画原作をほかにも紹介しておきますと、1967年には、「中三時代」(旺文社)に「怒りの砂」という漫画を連載なさっています。これはスペース・オペラですね。山野さんはすごくお金があって、こうして仕事を精力的にこなしていたからと思うのですが、ほかに、競馬評論の原稿でも儲かっていたみたいですね。

 荒巻 「僕はビフテキ食べてるよ」と言ってましたね。

  「NW-SF」の2号の巻頭言に、「創刊号は残っている在庫の全てを売りつくしても十数万円の赤字を出すことが判った。にもかかわらず、2号は更にページ数をマシ、発行部数を増加させ、イラストレーションを大量に使い装丁をよくし、内容も大いに向上させた。正にわが財力の勝利である。バンザ-イ!」と書いています。

 岡和田 いちど、こういうことを言ってみたいですね(会場笑)。

 増田 これは、フカシじゃないんです。毎号、百万単位で赤字が出ていたはずです。少なくとも、山野さんの財力で「NW-SF」は出続けていた。我々はそこへ行くと、毎回ごはんを食べさせてくれました。

 岡和田 1970年頃から、山野さんは「政治」というものを意識した文章を書かれていくようになります。ただ、いわゆる中核派だとか革マル派だとか、いわゆるセクトとは縁がなく、むしろNW-SF社はノンセクトの牙城になっていたと、自筆年譜に書いてあります。
 「太陽にほえろ」で有名な清水欣也さんという人――「戦え、オスパー!」のプロデューサーでもありましたが――「NW-SF」に「天使街」という小説を連載しています。

 荒巻 筒井さんの「佇む人」を山野さんが酷評したことがあって、筒井さんがそれに「見当外れだ」と反論したことを記憶しております。

 岡和田 「読書人」の時評では、山野さんは筒井さんには状況依存的であると厳しい評価を下す事が多かったのですね。「佇む人」については、1974年11月18日号で、「被害者としてのセンチメンタリズム」に甘んじていると批判しています。

 1970年頃から、ニューウェーヴ論も積極的に書くようになって。有名なのは「NW-SF」創刊号(1970年7月)の巻頭言「NW-SF宣言」。「ノーワンダー」を謳い、小松左京の未来学などを、徹底的に批判しています。ちなみに生前、山野さんは「小松左京は山野浩一に褒められたくて仕方なかった」と言っておされました(会場笑)。

 荒巻 小松左京については厳しいですね。覆面座談会から厳しい。

 岡和田 山野さんご自身は、覆面座談会には参加しておられないと思うのですけど、日本SF史の暗部として、半世紀を経ても語られるという。

 荒巻 筒井さんは、「この人の作品は残らないね」なんて(覆面座談会で)言われているんだけど、筒井さんは残っていますからね。ちょっと、なんかいろいろおかしいな。

 岡和田 このあたり、社会批評については「日本読書新聞」にたくさんお書きになっていて。デフォーやバラードなどについても書いています。

 荒巻 隠れた日本SF史だね。

 岡和田 最近見つけた資料では、「奇想天外」1976年10月号に山野浩一・石川喬司との対談「オーバー・ザ・ニューウェーブ」が非常に充実した内容です。


●6:NW-SFワークショップについて

 岡和田 そろそろ「NW-SF」で開催されていたNW-SFワークショップの話に移りましょうか。ようやく、現物の資料を入手できました。参加者の國領昭彦さんが提供してくださいました。ヤスパース、ロラン・バルト、トロツキーなどを読むという勉強会。ちなみに、山野さんはトロツキーを高く評価していたというのを知りました。小説の勉強会というのも週一でやっていた。「マッチ箱を投げてから降りてくるまでの描写を二百字で書け」、とか。そのようなユニークな課題が出ていたということで、増田まもるさんから、ワークショップの体験談などもお聞かせ願えれば……。
 
 増田 僕はその、創作の方はあまり参加しなかったのだけれども。山田和子さんによる翻訳のワークショップもあったようですね。マイケル・バターワースの訳の検討など。ただ翻訳に関しても、僕はいきなり山野さんに「何か翻訳やってみないか」と言われて、(イギリスのニューウェーヴ雑誌)「ニュー・ワールズ」の掲載作品ならどれでも、と。そのとき、僕はマイケル・ムアコックの「夢見る宮殿」とラングドン・ジョーンズの「レンズの眼」とどっちか迷って、「レンズの眼」にしました(「NW-SF」Vo.10、1975年)。

「NW-SF」では、箱根に行きましたよ。あのときは、山野さんと山田さん、そして僕の3人だけだったんだよ(笑) 当日何人来るかなと思ったら、蓋を開けたら3人だけだった(笑)

 岡和田 案内には、「9月6日にハイキング、討論会、ゲーム、成り行き任せ……」と書いてありますね。

 増田 そう、成り行き任せ(笑)おかげさまで、山頂まで登ったりして面白かったですよ。

 岡和田 NW-SFワークショップ会員の研究会の禁止事項というのも面白いですよ。「1:理論的正当性に欠けること」、「5:会員あるいは関係者に甘えること」って(会場笑)。文学では、ウェルズ、マイリンク、ザミャーチン、安部公房なんかを読んでいたと。山野さんの根底には実存主義があるんですね。思想では、ヤスパース、ベルジャーエフ。

 増田 それと、オルテガと、マックス・ピカート。私も大好きですね。『騒音とアトム化の世界』。山野さんのなかで「アトム化」という言葉がしばしば出てきたから、基本概念に入っているのだと思いました。

 岡和田 こういったワークショップをやられていた、というのが70年代。この時期は仕事の範囲が広くて、暴走族への取材なんてものもあります。「いま金沢で起こっていること」。これはサーキット族を取材するんですね。掲載媒体は、なんと「週刊文春」の1972年7月31日号(会場笑)。当時は、イケメンな写真も載っています。

 増田 山野さんはすごく童顔なんですよ。だから、少し年上に見られたくて髭を生やしていたところがありますね。「デルタ」という映画の話が出ましたが、あれの冒頭とラストに出てくるのが、山野浩一です。最後に山野さんに会った時に、「あれって山野さんでしょう?」と聞いたら、そうだと言っていましたから。

 岡和田 「日本読書新聞」に載った「現代学生の内と外」に、「デルタ」のスチール写真が載っています。関西学院の山の近くの山を闊歩して、政治的アジテーションのパロディとか、銃で撃たれて倒れるところとかがあります。

 これが映画祭で高く評価されて、山野さんは足立正生さんと知り合ったそうです。やがて、足立正生さんは日本赤軍に合流してパレスチナへ行ってしまうわけですが、1997年に足立さんが逮捕されてからは、救援運動に関わったと言われています。

 なお、遺品から、映画脚本も出てきました。『なりすまし』と言いまして、関係者向けに製本されていますが、足立正生さんと共同執筆です。ちょうどホリエモンや村上ファンド事件などがあったことで、そうした世相が取り入れられており、「アキバ族」なんかも出てきます。
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