山野浩一氏追悼パネル 電子版限定(4)

参加者:デーナ・ルイス(翻訳家)、高橋良平(フリー編集者)、大和田始(翻訳家)
司会・本文構成:岡和田晃 文字起こし:柳剛麻澄

SFセミナー2018合宿企画 於:鳳鳴館森川別館【東京】

●1:今後、どの小説を英訳する?

 岡和田 お越しいただいてありがとうございました。昼の企画(山野浩一氏追悼パネル 電子版限定(3))の続きということで、ざっくばらんな話を聞いていければと思います。

 山野浩一さんと一緒に70年代のNW-SFワークショップをやられた方というのが今回のゲストの基準として選んでおりますので、昼の企画では語り足りなかった事からお話いただければと思います。

 ではデーナさんの方から。開始前の雑談で山野さんの次の小説を訳すとしたら「X電車で行こう」も面白いんじゃないかという話をされていましたが……。

 デーナ 「鳥は今どこを飛ぶか」を翻訳した当時、なにを翻訳するかを考えながら、山野さんの短編をいくつか読みまして、その中で一番好きになった作品が「鳥はいまどこを飛ぶか」と「X電車で行こう」だったんです。けれども、どちらを実際に翻訳しようかと迷いまして、当時は1970年代の終わり頃だったので、海外の読者は「X電車で行こう」に出てくるX電車の東京の地下鉄網での動きが絶対にわからないだろうと思い、翻訳不可能と思っていたんです。

 しかし今ですと、海外での漫画やアニメの普及で、向こうのファンがコミケに参加するために日本へ来たり、日本のアニメが米国の映画館で全国上映されてたりしていますし、また、先に岡和田さんが指摘したように山野さんの「X電車で行こう」の出版から何十年も経過しており、地下鉄の新しいラインも作りあげられていますので、今なら海外の読者は大雑把に「東京にはいっぱい地下鉄が通っている」と知っているので、「X電車で行こう」がやっと翻訳可能になったのかなと思います。

 岡和田 当時の電車のラインと今では全然違うので、かえって訳しやすいんじゃないかみたいな話?

 デーナ えぇ、えぇ。その頃は無理だったと思うんですけど、今ですとかえって可能になっているかと思います。

 立花眞奈美(SFセミナースタッフ) 東京でも大阪でもそうだと思うんですけど、ものすごい、迷路みたいな地下鉄があるのはもうけっこう知られてきているということ?

 デーナ えぇ、そうです。海外でも知られてきています。今なら向こうでは、東京メトロの地図が印刷されているようなアクセサリーまでありますので。ですから、その当時は日本の事情が海外で知られていなかったために翻訳不可能だったものが、今では読者の日本についての知識が上がっていて、その結果翻訳可能になっているというふうに思っています。そして、いま「X電車」の次に翻訳したいと思っている作品は、最近『NOVA』に出ていた――。

 岡和田 『NOVA 書き下ろし日本SFコレクション10』(河出文庫、2013年)の「地獄八景」?

 デーナ えぇ。しかし、「地獄八景」は、なかなか文化的に違うので訳しにくいかと思います。

 岡和田 落語が元ネタなので。

 立花 鳥の絵がありましたね。ホシヅルに似ている(岡和田注:「Where do the birds fly now?」のタイプライター打ち英訳原稿に手書きされているホシヅルの絵のこと)。

 岡和田 ホシヅルですね。日本アニメが海外で見られるようになったのでやりやすくなったというのは、「X電車で行こう」がりんたろう監督でアニメ化されているからですね。

 デーナ いいえ、そうでもありません。「X電車」のアニメ版が大変短いもので、海外で広く普及しなかったのであまり知られてないと思います。特にアメリカ周辺では、見ている人は非常に少ないと思います。

 岡和田 30分くらいですね。そうですね、アメリカの人で知っている人は少ないかなと私も思います。

 デーナ 個人的には嫌いですけど(笑)。山野さんの伝えようとしている事とはなんか違うような。

 岡和田 どこまで脚本に山野さんが噛んでいるのか不明ですが、だいぶ日本のアニメのコードに合わせようとしてる感がありますよね。

「地獄八景」をやりたいというのはどうしてですか?

 デーナ その当時山野さんが自分の文章(『NOVA10』に載っていた作者コメント)で書いていたんですけど、ずーっとフィクションを何も書いていなかったので、編集者に何か楽しいものを書いてくれと頼まれた時点で、自分でも驚いたんですけど、「地獄八景」が意外とすっすっすっと出てきた、と。そしてまた、亡くなられる前に最後に出版されたフィクションでもあり……そのふたつの要素が重要です。そして最後に、海外の、少なくともアメリカ人の死後観とだいぶ違うので、みんな面白がるんじゃないかな、と。

 岡和田 そうですね。かなり仏教的な要素が入ってますよね。

 デーナ 是枝裕和監督だったか、20年前くらいに出た映画で、亡くなるとビルに入って、自分の人生で一番大切な、至福の、宝にしている一瞬を再現するスタジオがあるという映画なんですけど、「地獄八景」を読んでいると、それと同じような印象があります。

 岡和田 『ワンダフルライフ』(1999年)との類似性を感じる、ということでしょうか。

 山野さんは2005年か2006年に映画の脚本を一本書いているんですね。『なりすまし』という脚本で、これは映画監督の足立正生さんと共著で、製本までされて関係者向けの冊子として配られています。これは携帯電話や女子高生、当時は村上ファンドやライブドアの詐欺などがあったのですが、そういった当時の現代的な風俗要素もかなり入っています。

 山野さんは他にも単行本になっていない作品があって、この今映しているのが「M.C.エッシャーのふしぎ世界」。これは「GORO」という若者向けの雑誌に連載していて、エッシャーの絵に文を添えているんですね。なぜこれが入れられないかというと、エッシャーの絵というのが大変版権料が高いんです。

 デーナ 絵なしでわかりますか?

 岡和田 わかります。あった方がなおいいでしょうけど。

「地獄八景」は英語で読むと味わいが違いそうで読んでみたいですね。


●2:ゲーム好きな山野浩一

 岡和田 では次に大和田始さんに語り足りなかったことを話していただければと思うんですが、どうでしょう。

 大和田 囲碁や将棋に打ち込んでおられた印象が強いですね。その前は人生ゲームとか。

 岡和田 ゲームがとにかく好きだったわけですよね。

 大和田 テーブルトークRPGのようなものね。

 岡和田 厳密に言えば、テーブルトークRPGは当時日本に入っていないので(岡和田注:RPGが日本に入ってきたのは1970年代の終わり)、似たような即興の物語遊びをやっておられたのでしょうかね。「週刊碁」の1977年12月27日号に、山野浩一さんの対局が写真入りで紹介されています。

 牧眞司(SF研究家) ワークショップでは、誰が強かったんですか?

 大和田 将棋は新戸雅章・志賀隆夫、山野さん・山田和子が同じくらいの棋力で、切磋琢磨してたんじゃないかな。

 岡和田 この話も面白いのですが、大和田さんのお話ももう少し聞きたくて。1973年12月号の「SFマガジン」のゲリラSF特集を大和田さん書かれていますよね。山野さんの「レヴォリューションNo9」が載ってたと思うんですけど、どういう経緯だったんですか?

 大和田 あれは森優さんと話し合って、“新しい波”の特集を何回かすると。そういうもののひとつとして、ゲリラ戦争を持ってきた。

 岡和田 あれはけっこうラディカルな特集ですよね。

 大和田 バラードもゲリラ戦争の短編を書いていますから。それからムアコックは、「ジェリー・コーネリアス」をやってましたよね。それでムアコックとM・ジョン・ハリスン、イギリスの“新しい波”の連中が、ジェリー・コーネリアスを使って連作やオマージュの形で短編集を作ったと。それでその巻末に、ジェリー・コーネリアスの業績がずらっと書いてあるんですけど、みんな架空というか、ジェリーとかコーネリアスという人の業績を勝手にひっぱってきて年譜にしているわけですね。その時に面白がっていたんですね。

 岡和田 非常に面白いですね。それも含めてニューウェーヴというのは、大和田さんはいつから意識したんですか?

 大和田 高校三年。

 岡和田 やっぱり「SFスキャナー」経由なんですかね、伊藤典夫さんの連載。

 山野浩一さんがいつニューウェーヴを知ったのかって私には、よくわかんないんですけどね。今回資料として配ったものでは、バラードを知ってからと書いていましたけどね。

 大和田 伊藤典夫さんの話とか、川又千秋さんの「明日はどっちだ!」。何より、バラードの「内宇宙への道はどちらか?」にものすごく感心して、そういうのを日本でやろうと思ったんだと思います。

 岡和田 なるほど。非常に興味深いですね。

 高橋良平さんが先ほどのパネルでおっしゃっていたように、60年代70年代の文化の総体から山野さんを見るとけっこうわかることがあって、山野さんは「新宿プレイマップ」っていうタウン誌に書いていて。大和田さんが「話の特集」に書いてましたが(1972年11月号など)。

 大和田 変な話ばっかり書いてましたね(笑)。

 岡和田 「話の特集」にはショートショートなんかもけっこう載っていて、小松左京のショートショートとかもあったと思います。

  「話の特集」って、その当時の文化の間のカウンターカルチャーのライト版みたいな。ありましたよね、「いんなあとりっぷ」とか。

 岡和田 「話の特集」と「新宿プレイマップ」は基本的にコンセプトが同じで、その辺りは関係者の回想本も出ているので、面白いところだと思います。「新宿プレイマップ」は、本間健彦『60年代新宿アナザー・ストーリー』(社会評論社、2013年)に詳しいです。山野さんの話も少し出てきますよ。

  パルコ文化のさらに前ですよね。

 岡和田 前ですね。その本を買うために新宿に行くとかですね、そういう現象もあって。

 高橋良平 その頃って、新宿の紀伊国屋書店で「宇宙塵」とか売ってて。

  そうですね。

 岡和田 「宇宙塵」が書店で買えるというのはやはりすごい話ですね。

 今ここに「SF Prologue Wave」に載せた「自殺の翌日」というとても短いショートショートがあるんですが(http://prologuewave.com/archives/6221)、これは「話の特集」の表紙に載った表紙ショートショートですね。こういうのもやっていた。小松さんとか筒井(康隆)さんとかも書いていて、当時の回想録を見るとSF作家が、自分が仕事を引き受けたけど忙しすぎて書けなかったから他のSF作家に紹介するというようなこともかなりやっていたと。この辺りってSF史では割と盲点かなと思うので、今回の高橋さんのお話を聞いてかなり大事かなと思いました。


●3:「SF新聞」と「宇宙塵」あれこれ

 岡和田 そういえば高橋さんは、「NW-SF」にお書きになっていないですよね?

 高橋 ないない。一度言われたのはね、評論特集やるけど何かあるかって言われた時に、その頃ちょうど平井和正に興味があったので、平井和正について書こうかなっていうふうな意見を言ったらさ、山野さんが即座に「それは小さすぎる」って(一同笑)。「そんな細かいことを書くな!」みたいなね(笑)。

 岡和田 平井和正と山野浩一は、対立というふうには言わないですけど、山野さん的には平井さんのような作風は評価できなかったということがあると思いますね。一応細かく見ていくと、実は山野・荒巻論争で平井さんが茶々を入れていた回というのもあります。

 高橋 それはなんか平井さんという人の個性が強すぎるから、普通には考えない方がいいよね。

 岡和田 それはもちろんおっしゃる通りだと思います。山野・荒巻論争の口火を切った「別のSF論――狂気の文学に突入せよ!」――これは牧さんに提供いただいたものですが――要旨を言うと非リアリズムの文学、例えばシュルレアリスムとかそういうのも全部SFだよというふうに主張している内容なんですね。これに荒巻さんが反論して、山野×荒巻論争というのが起きるわけで、それは「日本SF論争史」で経過を牧さんが細かく寄稿していらっしゃいます。確認したところ、書誌情報はぜんぶ正確でした。載っているのが「SF新聞」という媒体なんですね。これは平井和正さんの出していた――。

  筒井さんと平井さんで、筒井さんが中心ですよね。

 高橋 実質は筒井さん。

  あの当時は平井さんと豊田(有恒)さんと筒井さん仲良かったから、たぶんちょっと手伝ってたくらいのかんじだったのかな。

 岡和田 でも当時みんなプロデビューしていたのにすごいですね。

 高橋 山野さんが「SFマガジン」に「日本SFの原点と指向」って書いたでしょ? あれを書く前っていうのは、山野さん全然みんなと仲良かったんだよね。SF大会に出たり。

 岡和田 当時のお便りとか見るとそんなかんじですね。「宇宙塵」の。

 高橋 結局、福島(正実)さんが、ああいうもの書かせたからっていうのはあると思うんですね。福島さんが文学路線というか、日本の作家が出きっちゃったみたいな感じで、しかも少しずつ中間小説とかに奪われかけたりするわけですよね。「話の特集」もそうなんだけど。だからなんというか、ある程度もう少しSFでできることちゃんとやれよ、いう部分があったと思います。だから福島さん自身が、海外のSFを輸入して日本の作家にそれを手本に書かせる時代から、日本のオリジナリティを出せっていうふうなことを言っちゃうと、作家と齟齬ができちゃって。その辺の事を踏まえて山野さんに日本のSFの問題点を書いてみないかって言っちゃうと、山野さんはああいうラディカルな人だからさ、本質的なことを言っちゃう。だから皆がもう、グサッときちゃってさ(笑)。

 岡和田 そうですね。昼の企画で言葉足らずになってしまったんですが、私の仮説としては、「宇宙塵」で「X電車」を書いた後に、なるべくSFらしいSFをという反響があったという話をしました。「X電車」はとても評価がよかったんですけど、他の作品はお便り欄で、山野さんと読者で論争になっていて(笑)。

 そして筒井康隆さんの「幻想の未来」が「宇宙塵」連載し終わったあと、一人だけ擁護しているのが山野さんだったんですね。この辺「宇宙塵」的な感覚とは少しズレというものを感じたのかと思うんですけど、そこはどうなんでしょうね。

 高橋 そういうものって、違うっていうかなんていうか、SFのファン一般あるいは「宇宙塵」の同人というのは少し視野が狭かったかもしれないけど、柴野拓美という人とはお互い認め合って仲が良かったんだよね。話とか全然噛み合わないんだけど、噛み合わない話を仲良く談笑するっていう、山野浩一と柴野拓美っていうのはそういう間柄だったんですね。

 岡和田 これですね、「『幻想の未来』をめぐって」(「宇宙塵」1964年10月号)。

 高橋 これ面白いですよね。みんなわかってないのがわかるから。

 岡和田 そうですね。当時こういうポストヒューマンというか、こういう作品は珍しかったところがあると思います。山野さんは『殺人者の空 山野浩一傑作集Ⅱ』に入っている「開放時間」というのが大作で、「宇宙塵」に三回連続で載るんですね(1966年4~6月号)。たぶんこれが山野さんにとってのSFらしいSFとして出してきたものかなぁと思うんですが、思ったほどの反響や手応えがなかったと山野さんは感じたのではないかと。そこから「宇宙塵」にほとんど登場しなくなってしまう。

 高橋 それはやっぱり無理解っていうことだと思うよ。

 岡和田 無理解。

 高橋 うん。SFファンがキャパシティが狭いから。もっとアイデアがすごいとかさ、オチがなんとかさ、そういうのを求める傾向に対して、何も応えられないから。そんなもの興味がないからさ。


●4:映画、革命、プロテスト

 岡和田 そうですね。もともとそういうタイプではない。山野さん上京するまではすごい映画青年で、上京して二~三年は「デルタ」含めて四本くらい助監督レベルで手伝っているんですね。その後「X電車」と「受付の靴下」を書き、作家として立とうという決意があって、そこで寺山とかと付き合いが始まるわけですけど。

 山野さんの元奥さんと話したら、方南町のマンションにずっと寺山修司とかと出入りしてたという話でした。むしろそっちの方の印象が強いという話でしたが、デーナさんその頃のこと憶えていらっしゃいますか?

 デーナ えぇ。私が日本の演劇に関心があったので、山野さんに連れられて安部公房の芝居に行ったりしたんです。そして、映画にも興味もありましたし――話がかなり後になりますけれども――所属していた雑誌で時々映画評を書くことになり、山野さんに映画関係の方に紹介していただいたことがきっかけになって、映画関係の人とも関係が続いていたんです。けれどもその時の映画は、主流の映画ではなくて、引き合わせていただいた監督は、赤軍関連の映画を作る監督で――。

 岡和田 足立正生さんですね(『赤軍・PFLP・世界戦争宣言』、1971年など)。

 デーナ ええ。足立正生さんに紹介していただいたりして、その辺りのメッセージのある革命的とまでは言わないですけど、プロテスト系のもののことについて少し教えていただきました。(デーナ注: もう少し詳しく説明しますと、2005〜07年頃、「ニューズウィーク日本版」(NWJ)で勤めていたころの話です。NWJで映画関連の記事も書いていたのですが、足立正生監督の「幽閉者〜テロリスト」の記事を新聞で見まして、取材して、レビューを書こうかと思いました。山野先生に連絡いたしまして試写会の紹介のアレンジまでしていただきました。それで試写会にいき、上映の後で監督を掴んで何分でも取材できたらと思いましたけれども、映画が終わってからの人混みがすごくて結局監督を頭越でしか見えなくて、直接に話すことなく帰る羽目になりました。すぐ後でNWJを去り、アメリカに帰ることにはなっていましたのでNWJでの最後の仕事の一つであったはずでしたけれども、結局企画そのものが消滅しました。昔のカレンダーを調べたところ、2006年11月27日の試写会だったらしい。なお、同じカレンダーで「December 7, 2006, YAMANO DINNER 6:30pm」となっています。今ではなくなっている吉祥寺のドイツ料理店だったと思います。最後に山野さんに会ったことになりますけれども、記憶はぼんやりで、あの日早く酔ってたと思います。そのころは山野さんに会う時の会話はほとんど英語になっていまして、SFの話より競馬関連の国際旅行、奥様の健康問題、などの内容だったように思います。また日本に来ると連絡するといいましたけれども、「山野浩一氏追悼パネル 電子版限定(2)」でご紹介いただいた日本SF大会のメッセージの通り、日本に帰っても連絡するのをなまけて、このことになりました)

 岡和田 「革命の死」という評論があります(「世界政経」1976年12月号)。これは毛沢東が死んだ時の話ですね。山野さんはけっこう毛沢東とか文化大革命とかにはかなり共感があったというのは國領昭彦さんに教えていただきました。

 デーナ 競馬のほうがどんどん山野さんの生活のなかで大きいものになっていって、アメリカのケンタッキー州とかに海外旅行したりして。競馬界のすごいお金持ちの人たちと付き合ってるうちに、なにか話題がすこし、文学や芸術からは外れてきたかなとちょっと感じたんですけれども。海外の料理はどこに行ったらおいしい、ケンタッキーの料理はおいしいとか。

 岡和田 そうですか。あんまり想像つかないですね。面白いですね。

 デーナ 12年前に吉祥寺で会って最後に話した時は、会話が全部英語になってたんです。それだけ英語に自信がついたらしくて、英語を使いたがって(会場笑)。(デーナ注:山野さんの話題が昔より普通になったのは会話の英語化によるところもあったかと思います。むかしより英語の話言葉がかなり堪能になりましたが、その領域が限られていたのです(social events, social English, horse-breeding, travel, food, など)。SFや文学論、と全然違う英語ゾーンです。また、私がNWJに勤めていた期間やその後は、ほとんど日本や英語圏のSFと関係がなく、翻訳の仕事もSFから漫画の方に移っていたので、私も日本のSFについても、あるいは海外SFについても、ほとんど新しい話題を提供できませんでした……)

 岡和田 去年、山野さんが亡くなる直前に、亀和田武さんが「小説宝石」2017年6月号に書かれた山野さんの回想があって、それを見ると競馬の稿料が普通の稿料の十倍くらいあったという話があって、本当にそれで食べていたんだなぁと。

 高橋 競馬新聞から顧問料もらったりとかさ。お金遣っちゃっても、競馬関係で生活はばっちりだったんですよね。


●5:山野浩一は恐れられた!?

 岡和田 少し観点を変えて、山野さんが恐れられていたという話を。「SF論叢」創刊号(1974年)に掲載されていた新戸雅章さんと志賀隆生さんのインタビューで(「SFの“新しい波”をめぐって」)、大和田さんはよくご存知だと思いますけど、ここでは書くたびに騒動が起きて、批判するたびに問題になってなかなか孤立して大変だった、というような話が書いてありますけれど、どうなんですかね?

  そこまでじゃなかった(笑)。だけど山野さん面白がってそう言ってたんじゃないですか?(笑) ただ、ファンはけっこう、山野さんのことを警戒はしてましたね。

 岡和田 それは亡くなった時にTwitterで古いファンがいっぱい言ってましたよね。

 高橋 それはさ、カリスマって言ったけども、山野さん、ある種のオーラがあるんだよね。それが怖がらせる効果があってね。だから本人はまったく意図していなくても、そう取られちゃうところがあるし、結局、福島さんは冷遇したけれど、二代目の森さんっていうのは、福島さんが文学路線でいったから、自分は大衆路線を踏もうというのでSF文庫を出してるんですけど、あの人は同時にずっと「ニュー・ワールズ」買ってるんですよね。で、読んでて、すごい大衆路線もわかるんだけど、ハイブラウも好きな人なんですよね。

 岡和田 両方わかると。ご自身もバラードを訳してますしね。この前出た『ハロー、アメリカ』(創元SF文庫、2018年)も。

 高橋 そうそう。だからなるべく、自分が編集長になってから山野さんにどんどん書いてもらおうとはしたんですよね。

 岡和田 そこが割と面白い話ですよね。

  恐れられたっていうのは、山野さん理論派だから、70年代当時のSF大会に来る人たちって今のSF大会に来る人たちを若くしたようなもんで、そんなに質は変わってないんですよ。だから楽しい話をしたくて来てるのに、山野さんみたいな理論派の人が正論言っちゃうと、ひいちゃうわけですよ。

 岡和田 なるほど。それはサーコン(生真面目で理論的なSFファン)とファニッシュ(享楽主義的なSFファン)の対立みたいな感じですか?

  そうそう、そうです。

 岡和田 確かに、私は、今はプロの編集者になった古参ファンに「お前が80年代のファンダムにいたらパージされている」って言われましたね。

  それはないと思う(笑)。

 岡和田 冗談です(笑)。

  ファンダムはそんなに偏狭じゃないから、岡和田さんの居場所は絶対にあったと思う。きっと山形(=浩生、翻訳家・評論家)くんとガンガンやりあってたと思う(笑)。

 岡和田 それはなんとも光栄です(笑)。

 ではわからない事が個人的にたくさんあるので聞いていきたいのですが、「NW-SF」って大和田さん編集者だった時もありますよね? 14号あたり。

 大和田 私は編集助手です。

 岡和田 助手。そこの体制がよくわからなくて。最初に「プレミリナリィ・ノート」っていうのが載っていて、これは無記名の時評なんですよね。これは文体で山野さんじゃないか山田和子さんじゃないかとか、解析中であります。

 大和田 山野さんが時評を書いた中から、山田さんあるいは私が抜き出して、山野さんに仕上げてもらいました。私が書いたものもありますし。検閲はなかったですね。

 岡和田 検閲はない。大和田さんはどのようにして「NW-SF」の編集に関わるようになったんですか?

 大和田 本会企画で、ちょっと話しましたけど、私が卒業して就職もせずにぶらぶらしているものですから。

 岡和田 他そういうツワモノっていうのは佐藤昇さんくらいしかいなかったんですか?

 大和田 佐藤さんは最初の頃ですね。4号まで。佐藤さんはどうして辞めたのか。私はほとんど接触していないんですよね。

 岡和田 そうなんですね。佐藤さんのお知り合いの方に僕まだ会ったことがなくて。そこは謎なんですよね(岡和田注:その後、2018年7月30日の「山野浩一さんを偲ぶ会」でお会いできました。「TH」No.76の「山野浩一とその時代(5)」に詳しく書きました)。

 高橋 山野さんと仲良く付き合うというのはとても大変なことなんですよ。

 岡和田 そうなんですか。

 高橋 優しいし楽しいところもあるけれども、どこかで相手の本質を知りたがるところがあるから、窮地に落とし込まれるみたいな部分がなきにしもあらずなんですよ。僕が最初に言ったことって、大和田さんもたぶんご存知だと思うけど、ダブルデイの『危険なヴィジョン』の原書が置いてあって、みんな訳者が割り振られていたの。その中でかなり多いのが伊藤典夫と浅倉久志だったんですね。だから70年代、創刊して数号たった号なんですけど、伊藤・浅倉が紹介してきた“新しい波”も取り込んでアンソロジーを出そうとしていたんです。だけど――。問い詰めちゃう。伊藤さん浅倉さんを。

 岡和田 それもすごい話ですね。

 高橋 だから逃げちゃった、二人とも。「そんな真面目に言われても困る」ってかんじでね。それで瓦解しちゃう(岡和田注:ハヤカワ文庫SF『危険なヴィジョン』は、1巻のみ刊行で中断)。

 岡和田 それで若い翻訳家を育てようと思ったということなんですかね。

 高橋 それは直接じゃないと思うんですけど、SFの関係の人間は、比較的そういう形で離れていっちゃう。例えばさ、普通のSFファンの会話だったら「どんなSFが好き?」、「なになに」って、お互い言いあって楽しそうじゃない? だけど山野さんはその本質をついてきちゃうわけ。

 岡和田 なんでそれがいいと思うんだね、って話ですよね。

 高橋 そうそうそうそう。すぐSF論に発展しちゃうようなところがあるのね。気楽に考えてるとさ、答えに窮しちゃうわけ。

  大宮さんのアプローチはちょっと違って、もうちょっと優しいけれど、大宮さんもすぐそういうことを聞きたがる。
 高橋 理詰めっていうのとは違うんですよね。「自己批判」せよって言われる感じ。そういう意味では公平的な部分がある。

 岡和田 当時の山野さんの書いたものを見ると、やはり政治的なので。あまり日本SFで政治的な人ってあんまり見ない。もちろん「エンターテインメント」のパーツとして使うことは少なからずありますけど、本質的な部分で政治性があるっていうのは、あまり例がないと思います。


●6:「NW-SF」の思想的人脈
 岡和田 せっかくデーナさんがいらっしゃるのでまたひとつお聞きしたいのが、山野さんの評論を英訳することになる契機です。

 デーナ 「翻訳していただけますか?」って言われて。84年の「ファウンデーション・ザ・レビュー・オブ・サイエンス・フィクション」への原稿を英訳したときは、私は日本にいまして、「ニューズウィーク」東京支局に取材記者として入っていて、それで頼まれたんです。中曽根政権とかの時代でああいう堅い報道記事を取材したり、書いたりしている間に、(当時の)東京支局のでっかいNECコンピューターを使って翻訳したんです(笑)。

 岡和田 へえ! でもこれ英語で山野さんが紹介されたのって初めてじゃないですかね。

 デーナ ああ、そうかもしれないですね!

 岡和田 90年代だと巽さんがやった、ダルコ・スーヴィンの評論「日本SFの原点と指向」の英訳ってありましたけど。

 デーナ スーヴィンは、直接山野さんに会ってるんでしょ?

 巽孝之(SF評論家、慶應義塾大学教授) お会いになった上で山野さんが翻訳の許可をお出しになり、スーヴィンから私が頼まれて、それで私のコーネル大学時代の友人カズコ・ベアレンズと一緒に訳して作った草稿に、さらにスーヴィンが手を入れ序文を付すという手順を踏み、北米を代表する SF学術誌「サイエンス・フィクション・スタディーズ」62号(1994年)に掲載されました。スーヴィンはポスト・マルクス主義批評家で、アメリカニズム批判の急先鋒だったので、山野論文には心底共鳴するところがあったのでしょう。

 この頃、同誌では日本の SF評論特集を組むという話があって、全く同時に荒巻義雄さんの「術の小説論」も柴野拓美さんの「集団理性の提唱」も、英訳の第一稿を仕上げていたんです。両者はいずれも SF定義をめぐる記念碑的な論文ですからね。

 柴野論文の方はのちにエドワード・リプセット氏が『Speculative Japan』第1集(2007年)に収録してくれました。しかしいずれにせよ、日本 SF批判という体裁を採ったアメリカ SF批判によって、山野論文が北米 SFアカデミズムにも一石を投じ大きな注目を浴びたのは確かです。

 岡和田 ありがとうございました。これは80年代の話なので「NW-SF」に戻ると、山野人脈ってけっこうよくわからないところがありまして。先ほどのNW-SFワークショップの案内には、大久保そりやが講師の回の記録が残っていて、大久保そりやっていうのは「共産主義的SF論」というのを連載していた人ですが、元は新左翼の革マル随伴知識人みたいなところがあった人で、黒田寛一論とか吉本隆明論とかを書いてる人です。この辺りは山野さんの思想的人脈っていうのを「NW-SF」にひっぱってきたのかなぁと思います。山野人脈というので思い入れが深い、印象深いというのは大和田さんありますか?

 大和田 何といっても「近代理性の解体+SF考」(「NW­‐SF」Vol.2、1970年、日本SF論争史』再録)の田中隆一さんですね。大久保そりやさんには原稿取りに行ったことがあります。昔の文士のような近寄りがたい雰囲気がありました。

 高橋 人脈とは別にさ、柏倉マンションって一種、ちょっとサロン的でもあったのね。僕が夕方くらいに行った時に山野さんがトランプでポーカーやってたのね。そこに「朝日ジャーナル」をクビになった川本三郎という人がいて。

 岡和田 『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』(河出書房新社、1988年)で書かれていた、朝霞自衛官刺殺事件へ、犯人蔵匿と証拠隠滅の点で関わったとされる問題ですね。

 高橋 無職で本を出す前の川本三郎が暇で遊びに来ていたりとかね、なんらかの求心力みたいな、気軽に皆が立ち寄って。

 岡和田 そうですね。川本三郎も「NW-SF」に書いていますし、70年代の川本三郎さんの批評、具体的に言うと『同時代を生きる「気分」』(冬樹社、1977年)読むと、すごく「NW-SF」に近い感覚があってびっくりしますね。
これは秋の遠足について。増田さんじゃなくて国領さんは行ったと。で、山田和子さんと山野さんくらいしかいなかったっていう(笑)。高尾山ですね。

 高橋 大菩薩峠行ったよね(笑)。

  なんか「NW-SF」に登山部の写真載ってますよね。

 岡和田 載ってますね。これ、読書会で「ヒューマニズムとテロル」メルロ=ポンティ、「カフカ論」ブランショ、「永遠回帰の神話」エリアーデと、当時の先鋭的な批評をちゃんと読んでいるというのが窺えますね。

 この辺り色々な切り口があると思うんですが、大和田さんの「遊侠山野浩一外伝」で、「近くにいたらモデルにされるから逃げまわっていた」とか書いてありましたね。それは本当なんですか?(笑)

 大和田 いやいや、それは冗談めかした(笑)。

 岡和田 ヒロインのピートって、山田和子さんの面影が投影されているのかなとぁとか、ちょっと思っちゃったんですよね。

 大和田 私もちょっとモデルになって出ていることは出ているんです。

 岡和田 どこに出ているんですか?

 大和田 「フリーランド」の……えぇと、どこだったかしら。もう忘れてしまった(笑)。

 麻枝龍(学生) 山野さんの人脈の話があったと思うんですけど、山野さんに大江健三郎とか安部公房とか日本の「主流文学」の人の評論とかも書いていると思うんですけど、安部公房とか大江健三郎さんとかとも実際に交流があったとか、そういったことはあったんでしょうか。

 岡和田 安部公房は会ったって言ってました。いちど飲んだって言ってましたね。ただ、福島さんが「SFマガジン」の編集長でなくなると、安部公房も日本SFから離れていったように見えなくもありません。

 高橋 ただ、編集長が変わると面識がなくなって、疎遠になっちゃうんですよね。

 大和田 大江健三郎さんには会ったかどうか。

 岡和田 倉橋由美子、大江健三郎、安部公房あたりは作家論をお書きですね。それに、山野さんは大島渚監督の映画『飼育』(1961年)についての評論がありまして、「飼育」は原作が大江健三郎ですから、それは常に評価はしていたんじゃないですかね。やはり強い影響を大島から受けたというふうに山野さんは直接おっしゃっていましたね。ただ大島についても全部良いわけじゃなくて、けっこう批判的に論じているものもあります。他の作家はどうなんでしょう。

 大和田 三枝和子さん。「NW-SF」の18号、フェミニズム特集の時に。

  僕が山野浩一さんの評論にしびれたのはやっぱり「SFマガジン」の“新しい波”の特集で、新しい波はシチュエーションではなく理念として語るべきだというところにしびれましたね。それまでSFっていうのは、例えば新しいこういう傾向の雑誌が出てきてこういう作家が集まってきてっていう、状況論的っていうか後追いで追っかけるみたいなところを、山野さんは、SFはどうあるべきかっていう話をしている。

 岡和田 他方で、山野さん意外といわゆるヒロイックファンタジーにも理解があって、『ファファード&グレイ・マウザー』なんかもけっこう褒めてるっていう。

  それはやはり、ムアコックはニューウェーヴSFでありながら、ヒロイックファンタジーの人でもあったから。

 岡和田 まさしく、ジュディス・メリル言うところの“ジャパニーズ・マイクル・ムアコック”としての山野浩一の活動は多面的ですね。私たちは今後の長い課題として、アクチュアルな“思想”として山野浩一さんの言説を捉え直す必要があるのでしょう。
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