きるものにまようウィルス

文芸 〈六月〉 荒木 優太

金原ひとみ「アンソーシャル ディスタンス」、鴻池留衣「最後の自粛」

またセックスしてんのかよ!と思わずつぶやいてしまった。
金原ひとみ「アンソーシャルディスタンス」
(新潮)の感想である。同作の最大の論点はこれに尽きるが、次点を挙げるとすれば、この作が特集「コロナ禍の時代の表現」をなす一篇として起筆されているということだろう。『文藝』夏号は先んじて「アジアの作家は新型コロナ禍にどう向き合うのか」という緊急特集を組みアクチュアルなエッセイを集めていたが、『新潮』では金原作のほか
鴻池留衣「最後の自粛」
が、『文學界』でも
滝口悠生「火の通り方」
山下澄人「空から降る石、中からあく穴」
が、小説内でコロナウィルスを直接扱っている。間接的ではあるが
小林エリカ「脱皮」
(群像)も広い意味ではコロナもの――ちなみに、
小林
は『ことばと』創刊号(書肆侃侃房)にも
「緋色の習作 A Study in Scarlet」
という短篇を寄せている――。いよいよ文壇もコロコロしてきたというわけだ。マスクつけながら読むっきゃないぜ。  
息苦しいのでマスクは三秒で外すとして、急造コロナ小説群を前にして思うのは、当然ではあるが、同じウィルスでもテクストによってその捉え方が大きく異なるということだ。金原作は、自粛ムードのなかそれでも逢瀬を重ねる大学生カップルの心中未遂旅行を描く。年寄に比べ若者は相対的にコロナで死ににくい。裏を返せばその行動範囲の広さは年功序列社会にとってリスクそのものでしかなく、男子大学生の母親による口うるさい容喙ようかいには、左派・リベラルさえもこうべを垂れる自粛大合唱社会がつづめられている。コロナに希望があるとしたら、そんな口うるさい母親が死んで空いた家で「ゴールデンレトリーバー」を飼うというカップルの夢想的な未来だ。ここでウィルスは、やつらを殺すが/われらは殺しはしない――「嫌だなあって言いながら生きてくんだよ」――、肉を切らせて骨を断つ若者蜂起の奇策にほかならない。  対して滝口作は、国際結婚した日本人女性が住むイタリアの山奥に夫妻で訪ねた二〇一七年を回想する。イタリアの二日前に滞在していたロンドンでテロ事件が起こったとの報に接し、夫はすぐに情報収集、自分の通ったルートで起きた事件ではないことを知って安堵する。そんな行為にはなんの意味もない。が、「数日前にそこを通り過ぎていたのと、そうでないのとでは、いま感じる恐怖の質が違う」。もしかしたら自分が被害に遭っていたかも、という可能的恐怖をせきとめるため、人は未来に何が起こるかつゆ知らず、殊勝にも時間の弥縫びほう策に駆り立てられる。いうまでもなくイタリアとはコロナの被害が甚大であった国の一つだ。コロナ流行りの現在時にあって、この小説自体が、夫の行為を反復している。ここでウィルスはテロと等価な恐怖の遠近法のなかに収まっている。金原作ならばこんな描き方は許さない。加害を引き受けながらも、「テロとか殺人事件を犯すことは想像もできないけれど、コロナが蔓延し始めた世界の中で、こんなにも幸福な想像ができることに初めて喜びを感じ」るのだから。  コロナ疑惑を匂わせつつ実は胃潰瘍で入院する山下作の言葉「わたしはどうしてわたしが、とは思いません」を滝口作にぶつけるのも一興だろうが、急造のなかでは鴻池作を、荒唐無稽な結末と妙に同性愛的な随所に多少のひっかかりを感じつつも、興味深く読んだ。「地球温暖化研究会」に所属する不良生徒・村瀬が、天候を自由に操れるという気象兵器「坂東賢志郎」を使って共学化という男子校に到来した最大の危機を阻止しようと暴走する。男の子版『天気の子』(by新海誠)である。いまから晴れるよ、と言う代わりに、村瀬はコロナ騒動を奇禍とし膨れ上がった会員たちにそれを「坂東賢志郎」の手柄として吹聴する。「あいつらは病気を伝染うつすなと圧力をかけてくる。馬鹿じゃないんですかね、我々を目の前にしてそんなこと言って。我々こそが病原体だ!」。この作でいう「自粛」とは、「抑圧者」、大人たちを毒殺することをいう。そりゃ粛清だろ、という訂正はもはや用をなさない。自粛や配慮の名のもとに世界を奪い続けてきたのは彼らの方なのだから。金原作が控え目にしか示せなかったヴィジョンが悪気もなく全面展開される。痛快。セックスするより物語を語れ、これ名言な。  今回はなんだか既に地位を確立した作家の作ばかりに言及してしまった気がする。願わくば新人のものを優先して取り上げたいのだが。あ、そうそう、サリンジャー特集が目印の『しししし』第三号(双子のライオン堂)にて
荒木優太
の連載評論
「柄谷行人と埴谷雄高」
がようやく完結した。読み直してみたが相変わらずいい文章だなと思った。さすがは私である。期待の新人だ。(あらき・ゆうた=在野研究者)