アメリカ映画と日本映画の哲学

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 155

映画撮影中のドゥーシェ(右端)
JD 
 コッポラは、常に新たな暴力が必要となる、そのようなアメリカ社会の根本的な仕組みを、マフィアの世界を通じて、強烈な映像によって見せることになりました。
HK 
 同じ時代に、日本では『仁義なき戦い』があります。ヤクザ映画は、『ゴッドファーザー』が出てきたのと同じ時期に、任侠の世界から離れていきます。暴力的な表現は多くありますが、アメリカ映画のように、より大きな力を追い求めるのではなく、居場所のない人々が生き残ろうと互いに殺し合う世界を描くことになります。
JD 
 当然、アメリカ映画とは異なる作り方となるはずです。私は日本人の感性に深い理解があるわけではありませんが、他の国との違いは、たとえば溝口健二や小津安二郎を例にするとよくわかります。溝口の見せた世界観は、フランスやアメリカでは考えることはできなかった。しかしながら溝口には、ヨーロッパ的な考え方の影響を見ることもできるので、日本人にとっても異質な存在であったはずです。しかしながら、非常に日本的な世界を見ることができます。つまり、儀礼的世界観です。それは小津や大島渚の映画にも見ることができます。日本人の家族構成や社会構成には、「しきたり」が深く関わっているように見えます。フランスにも、古くからの「しきたり」はありますが、私たちは全く気にしていません。
HK 
 フランスで、既存の「しきたり」を無視できるようになったのはフランス革命の少し前からですよね。
JD 
 そのように言ってもいいかもしれません。それ以前のフランスではキリスト教が非常に強い力を持っていたので、教会に反することはできませんでした。加えて、教会の力を利用していた権力にも、逆らうことはできませんでした。しかしながら、そうした権力を、モリエールなどの演劇人は遠回しに非難していました。一方で、日本は――私は一部の日本映画しか知りませんが――、忍耐することを楽しんでいるように思えます。
HK 
 そうかもしれません。僕は、日本の芸術史に詳しいわけではありませんが、映画に関わる主題の多くは、江戸時代の庶民劇の影響があるようです。たとえば、溝口の『近松物語』は、江戸時代から広く親しまれている人形劇の話です。今日の日本映画でも、――意識的なのか無意識的に作っているのかはわかりませんが――社会の抑圧の中で、反抗することもなく、人間がもがきつづけるような作品は多く見られます。日本人は忍耐することが好きなのかもしれません。そうした作品を続けて見ると疲れます(笑)。アメリカ映画の方が圧倒的に見やすいですね。
JD 
 (笑)。日本人が忍耐すること(=トレランス)が好きな一方で、アメリカ人は忍耐しないこと(=イントレランス)が好きなようです。アメリカ映画は、その最初から、つまりグリフィスの『イントレランス』から、我慢することができないのです。もし問題があれば、より良い社会を作るために、自ら動いて、自分たちの手で作り直さなければ納得することができない。アメリカ映画の根本にある哲学は、ハッピーエンドであり、理解することが簡単です。アメリカ映画の前では、誰もが平等です。つまり、アメリカ映画とは二〇世期の哲学なのです。生まれによる差別が力を持たなくなり、お金という尺度が強い力を持った時代を体現しているのです。スラムのような貧困街で生まれ育った人でも、お金さえ得れば、社会的成功を収めることができる。その社会的成功こそが、アメリカンドリームです。つまり、アメリカ映画の哲学とは、夢なのです。目標をたて、その目標のために努力をし、目標を達成することにあるのです。そのような夢は、大きな家に住むことでも、綺麗な女性を得ることでも、大統領になることでもあり得ます。世界中の誰もが夢を持ち得るからこそ、アメリカ映画は世界中ありとあらゆるところで受け入れられているのです。  一方で日本映画やフランス映画が、アメリカ映画と同様に、世界中で受け入れられることはありません。大衆は、現実に目を向けたくないからです。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ)