文学・歴史・美術横断、芭蕉資料「鯉屋物」と寺村百池旧蔵蕪村資料

新天理図書館善本叢書「連歌俳諧」全六巻刊行!!
カラー版で味わう 芭蕉・蕪村の名品

新天理図書館善本叢書第五期「連歌俳諧」全六巻は、天理図書館所蔵の、連歌巻子本、芭蕉自筆資料の一級品「鯉屋物」全点、『西鶴独吟百韻自註絵巻』、蕪村の新出資料等を、高精細カラー版で収録する。刊行を機に、通巻三十四~三十六巻の芭蕉集、蕪村集について、その主な見どころを、新たな視座から紹介いただいた。(編集部)


●鯉屋物と綿屋文庫
【大橋 正叔】

 「鯉屋物」とは、松尾芭蕉の最古参の弟子であり、後援者であった杉山杉風が蒐集し、代々が家伝してきた芭蕉及び杉風関係の俳諧資料である。杉山家は徳川幕府に鯉を納める御納屋鯉御用であり、屋号を「鯉屋」といった。鯉屋八代目のとき、全資料四十一点が一括質入れされたのを機に、総称して「鯉屋物」と呼ぶようになる。
 鯉屋物の価値とは、一つには十八点ある芭蕉真筆である。杉風が蒐集し杉山家に伝わったものであるため、由緒正しい芭蕉自筆本であることが保証される。保存状態も非常によい。
 杉風にとって芭蕉とはかけがえのない師であり、盟友であった。また芭蕉にとっても杉風は最も信頼を寄せた大事な存在で、旅の途上の大坂での死の直前に、杉風へ遺言を残している。そのような関係性だったからこそ、芭蕉関係資料は杉山家に代々大切に保管されてきたといえるだろう。
 天保十一年、鯉屋八代目から鯉屋物が質入れされ、金子の返済ならず一括譲渡された先は、江戸木場の鹿嶋屋六三郎、自身も俳趣を愉しむ人であった。ところが鹿嶋屋も鯉屋物を手放すことになる。次の譲渡先は、芭蕉と同郷伊賀上野の実業家・菊本直次郎である。四十一点中三十五点の鯉屋物が譲渡された。そして昭和五年、自身の還暦祝いに『蕉影余韻』を刊行し、鯉屋物三十五点全てを掲載した。これによって、鯉屋物の全容が世間に公表されることとなった。
 菊本が昭和三十二年に没した後、彼の蔵書の多くは上野市に寄贈され、芭蕉翁記念館蔵となるが、鯉屋物は一時所在不明となる。それが古書肆に買い取られたことを柿衞文庫の岡田利兵衞が知り、伝えたことで、昭和三十七年七月、鯉屋物が天理図書館に所蔵されることとなる。
 俳諧三大文庫とは、一つは東京大学総合図書館内の洒竹・竹冷・知十他文庫、約五千部が収蔵されている。柿衞文庫には約一万一千点、そして天理図書館「綿屋文庫」は約三万有余冊を収蔵する。綿屋文庫は個人の蔵書を一括購入することが多く、同じ本を重ねて収蔵していることが特徴である。江戸の版本は版ごとに多少の違いがあり、同じ本を複数所蔵することが幅広い研究に役立つのである。
 これまで天理図書館は、俳諧連歌資料をいくどか叢書のかたちで刊行してきた。ただ、鯉屋物三十五点が一挙公開されるのは、『蕉影余韻』以来である。また精巧な印刷技術によるカラー版の刊行は初めてのことになる。芭蕉の残した手紙や書は表装され、茶室の床の間に飾られる茶掛けとしても愛でられてきた。鯉屋物には画賛も多く含まれている。芭蕉関係の一級資料としてはもちろん、芭蕉直筆の絵や句と、その空間のバランスなどを、ぜひ美術品としても楽しんでもらいたい。(談話)(おおはし・ただよし=天理大学名誉教授・近世文学)


●芭蕉の造形感覚
句の世界と絵画的なるもの
【井田 太郎】

《芭蕉と書画》

 松尾芭蕉自身による画業は、晩年に比較的集中している。森川許六(芭蕉の絵画の師)が芭蕉に入門したのは元禄五年(一六九二)と遅く、芭蕉が大坂で歿するのは同七年(一六九四)という事情もあっただろう。「「長嘯の」発句自画賛」(天理図書館蔵)などに掬すべき味はあるのだが、画技はお世辞にも巧いといえない。
 一方で、一番右に「元日やおもへばさびし秋の暮」(延宝末年~天和年間か)、一番左に「ほうらいにきかばやいせの初便」(元禄七年か)、計五枚の短冊を略々年代順に貼った「歳旦発句短冊集」(鯉屋物・図1)をみれば、書風を意識的に変遷させてきたことがわかる。

《書風と内容》

 「枯枝に・笠やどり画賛」(早稲田大学図書館蔵)をみれば、書風の使い分けも確認できる。芭蕉は右に大きく「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」(A)、左にかなり小さめに「世にふるは更に宗祇のやどり哉」(B)と書くが、A・Bの書風から受ける印象は少し異なる。Aは見得を切るように漢字を大きく、ひらがなを連綿で小さく書く。これに対して、左は「笠やどり」と題する長い文章のあと、Bが置かれる。漢字とひらがなのサイズの差は、Aほど顕著でなく、均一に近い。
 AとBとを異ならせた理由としては、画面における書記可能なスペースの問題もあろうが、採用した書風と発句の内容とが相関するからだろう。というのも、芭蕉においては、字余り句と漢詩文調は緊密に結びついてきたが、これを記す書風がAの書風で、「櫓声波を打て」短冊(出光美術館蔵)が代表的な例である。懐素「自叙帖」(國立故宮博物院蔵)など、狂草にもどこか通じ、中国や中国につながる禅林のイメージを意識している。
 この絵画は他人の筆である。絵の右部分は中国の枯木寒鴉図の画題を彷彿とさせ、左部分は西行のような法体が佇む。いわば、芭蕉は左右の主題を〈漢〉と〈和〉とそれぞれ理解し、〈漢〉に結びつく書風としてA、〈和〉のそれとしてBを対比的に採用したと考えられる。もっとも、これは他人の絵画に加えた賛で成功した例であり、自画賛の場合はどうだろうか。

《芭蕉の絵画》

 「「あかあかと」発句自画賛」(鯉屋物・図2)をみてみよう。画面上部に「あかあかと日はつれなくも秋の風」と認め、赤い太陽、その前に萩を淡彩で描いたもので、杉山杉風の所望で制作されたと推定されている。
 附属する杉風筆の添状には、この発句が公家たちに激賞されたと縷述される。発句自体は、元禄二年(一六八九)七月の吟と考証。自画賛の制作自体は、筆蹟から元禄四・五年かとされており、晩年の染筆ということになる。
 現在は行方不明だが、初期の門人高山麋塒の旧蔵品など、類作が二点備わり、芭蕉自身が使い回していた形跡もある。当人も気に入っていたようであるが、周辺に需要があったからこそ、使い回しというかたちで供給し、流通させていたと考えられる。
 さて、どこが賞美されたのか。杉風は添状で「絵もかるがる出来たる也」と評を加えている。作品に即すれば、淡彩で、あっさりした点を誉めていることになる。「晩年の芭蕉の句風、〈かるみ〉に対応するものなのだ」と、余白で述べたようなコメントとなっている。いってみれば、俳諧に隷属するものとして、絵画を評価している。
 後年、与謝蕪村は、〈俳画〉に相当する絵画のことを「はいかい物の草画」と呼んだ。本作は「草画」、すなわち簡単な絵という要件と合致する。しかし、今日の〈俳画〉のぼんやりした概念の輪郭に照らせば、発句と絵画の距離があまりに近すぎる。かように技術的な限界があるので、杉風のような擁護的コメントもでてくるのだろう。

《武蔵野図と帰属意識》

 画力が舌足らずとはいえ、折角、自画賛が守り伝えられてきたのに、これでは芭蕉の内的世界や造形感覚を窺っていることにはならない。
 実は、「「あかあかと」発句自画賛」を図像的に検討すると、「武蔵野図屛風」と総称されるものに似ていることに気づく。「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」という和歌が背後に漂うものだが、このうち、左右両隻にわたって秋草を描き、左右に日月を配するタイプを「日月秋草図屛風」(シカゴ美術館本、藤田美術館本、根津美術館本など)と呼ぶ。このうちの太陽を前に秋草が描かれる隻は、芭蕉を彷彿とさせる。
 さらに、月を前に秋草が描かれる逆の隻と似る、芭蕉の自画賛もすでに紹介されている。こちらは月の前に萩を描く。表記は異なるが、「白露もこぼさぬ萩のうねり哉」の自画賛で、署名が「芭蕉翁画」のもの、「武陵芭蕉画」のものの二点(ともに、個人蔵)存する。太陽と月の軸を併置すれば、芭蕉個人の造形感覚のなかで、武蔵野図として円環を構成していた可能性さえ拓けてくる。画題を集成した版本などで、武蔵野図を目睹していたと考えていいだろう。
 この「白露も」は、元禄六年、深川にあった杉風の別荘採荼庵で萩をみての一句。住国併記型署名が地方での染筆に多いことに鑑みれば、芭蕉は武蔵国江戸(武陵)の俳人として、武蔵野図のバリエーションを地方で流通させていたことになる。自らの帰属意識という内的世界の一端が、幾星霜珍重されてきた資料の彼方から、生き生きと蘇ってくるようではなかろうか。(いだ・たろう=近畿大学教授・近世文学)


●寺村百池旧蔵資料の出現
【中野 沙惠】

 与謝蕪村といえば、夜半亭三世を継いだその弟子几董との関係に注目が集まることが多い。すでに天理図書館善本叢書で『几董句稿』上・下(尾形仂氏解題)の影印本が刊行されており、蕪村研究に多大の貢献をしている。
 このたび新善本叢書第五期として、牛見正和氏の解題で『蕪村集』一・二の影印本が出ることになった。そのいずれも、蕪村門で後援者でもあった寺村百池(一七四九~一八三五)旧蔵の資料で、『夏より』『高徳院発句会』『月並発句帖』等の蕪村一門の月並句会記録類等が一に、新出の『夜半亭蕪村句集』が二に収まる。
 一に収まる句稿類は、潁原退蔵博士のペン筆写本(現在京都大学文学部潁原文庫蔵)が夙に知られるが、その一部に学生によった筆写があり、誤記、誤読もまま見受けられた。原本の所在が長い間不明だったゆえに、牛見氏らによる『ビブリア』の翻刻紹介と合わせて、今回の影印本公開の意義は少なくない。また、『夜半亭蕪村句集』はそのごく一部が、乾猷平氏によって紹介されたものの、その後行方が分からなかった。本句集は、四季別に一九〇三句、漢詩一首が記され、このうち二一二句は新出句である。筆写者は主に百池、全体に蕪村による訂正が施されている。作品はかなり作成年次に従って記録されていることが判ってきた。本句集が今後に資するところは大きい。
 講談社『蕪村全集』第一巻は平成四年刊だが、その六年前に尾形先生のお供をして百池の後裔寺村助右衛門家を訪問した時には、今回新出の資料類はすでになかった。当然ながら『蕪村全集』にこれらは反映できなかった。例えば、全集一で作成年次が不明であったり、資料の不備により存疑とされた発句が、本句集の検討を通して正しい位置に据えられることになった。
 京都の古書肆から天理図書館に収蔵されることになったこれらの資料群が、散逸せず寺村家に伝えられ、いまその所在が明らかになったことに感慨を禁じえない。

 昭和六十一年の寺村家訪問で拝見した資料群は、絵画資料十四点、墨蹟資料十三点にのぼった。絵画資料にはよく知られる「四季山水図」(重要文化財)をはじめとする軸物類、また墨蹟資料には「蓑虫説」「二見形文台記」等の俳文類の外に『夜半翁蕪村叟消息』一巻が含まれる。これは巻子仕立てで、「夜半翁蕪村叟消息」という百池筆の題箋が貼られ、蕪村から百池に宛てた書簡を四〇通余貼り合わせてある。こうした資料や絵画類によって百池が蕪村の経済的な後援者であったことがよく解る。
 芭蕉には杉風というパトロンでもあり、終生師に仕えること篤かった門人がいた。蕪村にとって、その杉風に相当する門人は正しく寺村百池であった。杉風家に伝来するものを「鯉屋物」といって珍重するが、百池家伝来品も、その由緒の確かさと内容の豊富さで、「鯉屋物」に匹敵するといっていい。百池の業績に対して、もっと私たちは高く評価しなくてはならない。(なかの・さえ=聖徳大学名誉教授・近世文学)


●蕪村「新出句」から見えてくるもの
【清登 典子】

 平成二十七(二〇一五)年十月十五日、新聞各紙は寺村百池家に伝来した貴重な蕪村関係資料が多数出現し、天理大学付属図書館に収蔵されたことを報じた。特に、長年にわたって所在不明となっていた『夜半亭蕪村句集』については、句集中に従来知られていなかった蕪村発句が二百句以上も含まれていることから大きな注目を集めた。「新出句」の中には
楼の仮寝の夢もかすむかな
雨に匂ひ風にかほるや花茨
のようないわゆる「蕪村調」と呼ばれる俳風を示す句のほかに、
傘も化て目のある月夜哉
蜻蛉や眼鏡をかけて飛歩行
などのような遊び心に満ちた句もあり、バラエティーに富んでいる。
 今回、高精細カラー版による影印本が出版されることで、これらの新出句を含む『夜半亭蕪村句集』の全体像や収載句についての調査、研究が格段と進展することが期待されるが、ここでは同句集になぜこれほど多くの「新出句」が含まれているのかという疑問について考えてみたい。その問いに答えるカギとなるのが、『夜半亭蕪村句集』作成の意図およびその元資料の性格である。

 これまで様々な角度から同句集に検討を加えてきた結果、『夜半亭蕪村句集』(四季別句集、百池他一名筆、全一九〇三句)は、蕪村晩年の自選句集『蕪村自筆句帳』(四季別句集、蕪村自筆、全一四五二句と推定)の選句資料となった句集であることが明らかとなってきた。つまり、蕪村が『自筆句帳』の選句のために、門人百池に依頼して作成させた句集が『夜半亭蕪村句集』であったと考えられる。
 また「新出句」についても検討した結果、約七割の新出句が句会提出用に作られた題詠句と考えられ、その中には句会提出句の別案句や類想句が含まれていることが判明した。このことは、蕪村が百池に『夜半亭蕪村句集』の作成を依頼した際、〈他の句集類には記されない多数の蕪村発句を含む句会関係資料〉を提供したことを推測させる。とすれば、今回の新出句は他の句集類に記されない蕪村発句のうち『自筆句帳』に選ばれなかった句ということになる。では、蕪村が提供した〈他の句集類には記されない多数の蕪村発句を含む句会関係資料〉とは具体的にどのようなものだろうか。
 周知のように蕪村の作句活動の中心は句会における題詠であった。
 今日残されている蕪村一派句会の関係資料からは、句会における題詠句提出には次の三段階があったと考えられる。
①題に基づく句作→手元の帳面等(一題につき句案多数)
②句会への提出→出句詠草(一題につき数句提出)
③句会での選句→句会稿(一題につきほぼ一句のみ記録)
 ①は、句会開催に先立って示された題(兼題)に基づいて蕪村がさまざまな句案を練る段階である。多数の句案が手元の帳面等に記されたと推測される。②は、①段階の句から数句を選んで「出句詠草」に記し句会に提出する段階である。残された「出句詠草」から蕪村が一題に一句から五句程度の句を提出していたことが確認できる。③は、句会において「衆議判」(合議)に基づいて選句が行われ、各人一題につき一句が選ばれ句会稿に記録される段階である。右の三段階の資料のうち『夜半亭蕪村句集』作成の元資料となったと推測されるのは、①段階の句会関係資料、すなわち一題につき多数の句案が記された蕪村手元の帳面類である。そう推測する時、『夜半亭蕪村句集』が一九〇三句という蕪村句集として最大の収載句数を示すこと、従来どこにも記されていない句会提出用題詠句が多数含まれていること、その中に句会提出句の別案句や類想句が見られることなどの意味が説明可能となるだろう。
 蕪村は晩年に自選句集を編むにあたり、句会提出に至らなかった句案段階の発句をも含めて自身の生涯にわたる全句作を集録させ、それまでの句評価を一旦白紙にした上で、あくまでもその時点における自らの選句眼に適った句を選ぼうとしたのであろう。いわば「決定版蕪村句集」とでも呼ぶべき完成度の高い自選句集を目指したのであり、その成果が『蕪村自筆句帳』となったと考えられる。とすれば、「新出句」が存在することは、自選句集編集にかける蕪村の強い意気込みと熱意を示すものとして受け取ることができるのではないだろうか。(きよと・のりこ=筑波大学教授・近世文学)